東京永久観光

【2019 輪廻転生】

お盆は終ってしまったけれど

●暗く静かな室内。黒い壁。肖像写真のスナップが横一列にずらりと並んでいる。各写真には名前が記され、その下には30センチ立方ほどの透明ケースがあって、それぞれの遺品が収められている。畳んだシャツやズボン、電気ヒゲそり、ノート、CD、靴などなど。パレスチナではインティファーダ(民衆蜂起)が00年から再会されたといい、その犠牲となった最初の100人をこうして追悼している。●「シャヒード、100の命」という展覧会だ。日本国内数か所を巡回している。東京展(終了)の会場が、わが家のあまりに近く、サンダルと短パンで行けるほど近くだったので、これは「イラクは他人事」だの「パレスチナは遠い」だのと言っている私のために、パレスチナが向こうからやってきたのだと感じ、足を運ぶことにした(サンダルと短パンではなかった)。●会場にあったカタログを見ると、多くの場合、デモや投石にちょっと出かけていった群衆の一人として、イスラエル兵などに狙撃されて死んでいる。●二つのことを感じとる必要があるだろう。ひとつは、100人が100人それぞれに好みや望みをかかえ、私たちと同じく平凡に暮していたという事実。このことは、写真の表情やケースの中の物品、カタログに書かれたエピソードなどを通せばそれなりに理解できる。もうひとつは、そういう人たちが日常のなかであっさり命を奪われたという事実。いや日常かどうかはさておこう。問題は死ぬというそのことだ。ある日突然死んでしまうということを、私たちはなんらか自分の体験に転換して身にしみることができるだろうか。すぐ思いつくスムーズな方法は、おそらく、自分の身近な人が死んだ体験あるいは想像を通してというものだろう。●では、私たちは、身近な人を亡くした経験はあるだろうか。想像した経験はあるだろうか。他人が死ぬことではなく、自分や自分に近い人が死ぬということは、それこそ「いちばん遠く」の出来事として常にあるのではないだろうか。●いや、本当は、問題はそうではない。かりに私たちが、身近な誰かを亡くしたことがあったとして、たとえば、これほど遠いパレスチナの見知らぬの人の写真や遺品をほんの1時間でもしげしげと眺めた、その程度でもいいから、その誰かを振り返ってきただろうか、ということだ。●パレスチナがいくら身近になろうとも、それに重ねるべき身近さが自分の側にないかぎり、それはたいして意味をなさない。私たちは、なにか本当に大事なことだけは、いつもいつも見失い、見損ねてばかり、ということはないだろうか。●リンク→『シャヒード、100の命