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【2019 輪廻転生】

ただの小説の話

吉田修一熱帯魚』(文庫化)。表題作のほか「グリンピース」「突風」が収められている。●どの作品も、人物と情景がきっちりした実在感で迫ってくる。けっこうヘンテコな人物像や関係性がちりばめられ、ややこしい事態がどんどん移り変わっていくのだが、いずれの場面も、その心情や関係の微妙な彩りや変化が、いうなれば小説を読む「頭」より「心」のほうにスムーズに浸透してくる感じなのだ。なぜかというと、たぶん、それぞれの出来事すなわち人物・事物・情景とその動きを、絶妙に切り取ったうえで等身大に描写していく文章のほうが、語りや独白で肥大化させて説明するような文章を十分に上回っていることの成果だろう。それによって読者は、この小説の世界から目をそらす隙がなくなってしまう。滞りなく共感しながら最後まで読み進んでしまう。…とまあ、このような説明ではない描写に浸れる状態こそが、幸福な小説読みの「心」というものなのだ。というわけで、私の説明よりも、具体的に『熱帯魚』を読むべし。●吉田修一の株、急上昇。前に『パークライフ』をあっさり貶してしまったので、もう一回読み直そうかとも思う。


●ところで、ブログ化の傾向を強めるウェブサイトを語るのに、「分散」という重要なキーワードが浮上してきた。ウェブでは今や、話題や議論は、あるいは認識や概念も、それぞれ分散しながら生成し、常に更新をくりかえすといってよい。中心や境界や終点を探しても見当たらない。ブラウズする側も、好きなところを好きなように読み、もちろん何かを書き加えて拡張してもよい。●これは、一冊の小説本を読むのとは明らかに対照的だ。小説を読む者は、見知らぬひとつの世界だけに時間や意識を没入させながら、たった一筋の文章を初めから終りまでリニアにたどるしかない。だから、いまどき悠長に小説を読んでみるかという選択に、かなり慎重になるのは仕方がないことかもしれない。●それでも、ときには、自律性なんて否応なく奪われてしまうような一方的な小説の読書にこそ、ひたってみたくもある。もちろんそこまで委ねられる相手はめったにいない。吉田修一はその数少ない一人になったかも。次は長い長い小説を読ませてほしい。

●分散のキーワードは、ごぞんじかもしれないが、次のページなどに。→(1)分散ジャーナリズムとしてのウェブログ(2)「自律分散」を考える

●(以下またもや長い…)なお、『熱帯魚』を読んで感じたことは、たったひとつの小説世界にも実に多様な要素が含まれているなあという、当たり前の事実だった。そうなると、ウェブ上のコミュニティーにおいても、たとえば新聞などに載った政治や社会やITのニュースが話題になる程度には、一遍の小説がもっと話題になっていいんじゃないかと思えてくる。ところが実際は、小説というトピックは、あまりそうした広がりを成していないように見える。これはなぜだろう。●理由1=小説はニュースほど読まれていない? 理由2=最近の小説の世界は、私たちの実際の世界をあまり反映していない? さあどうだろう。●あるいはこうも考えられるのではないか――。ニュースの場合、私たちが共有する現実という一般的な世界がまずあって、個別のニュースはどれも、その世界にだいたいうまく配置して議論できる。そうして一般的な世界がまたひとつ編みあげられていく。しかしそのとき、ニュースの当事者がまとっているはずの特殊な内実は、詳しく知りえないし、私たちが一般的な世界を理解したり議論したりするにはむしろ邪魔なので、捨て去られてしまうところがある。●ところが、小説に表れてくる個別の主人公、個別の事情、個別の出来事は、一般的な世界の材料として登場するのではなく、まさに特殊性や個別性そのものとしてありありと描かれる。良い小説であるかぎり、主人公は、架空のなんでもない人物にすぎないのだが、その人物でしかないような世界をまざまざと生きている。だから、その具体性について理解したり議論したりすることで、一般的な世界がうまく編みあげられていくとは、必ずしも言えない。●まあ早い話が、小説は、ニュースを理解し議論するシステムやスタイルでは語りにくい、あるいは小説は理解や議論がそもそも難しい、ということになるのかもしれない。