東京永久観光

【2019 輪廻転生】

誰が何に囚われているのか

公園トイレ壁に「戦争反対」で起訴 初公判で「不当だ」 (アサヒ・コム)
●「こういう奴には、ひとこと言ってやりたい!」。そう思った人も多いだろう。でもその前に、このサイト『落書き反戦救援会』をざっと眺めてみよう。もしかしたら、ひとこと言う気が薄れるかもしれない。あるいは、人によっては、なおさら激しいひとことを言いたくなるかもしれない。

●同サイトによれば、《落書きの内容は「戦争反対」、「反戦」。そして大きく「スペクタクル社会」》だったという。もし、この落書きが「夜露死苦」とかだったら、ここまで騒動になったり、救援会が立ち上がったりはしなかったのだろう。ということは、この一件は「反戦問題」なのか? 
●いや、これはやはり「落書き問題」だ。というのは、落書きが、まったく後ろめたくなく、ハタ迷惑でもなく、書けば書くほど世間や警官に褒めてもらえるような行いだったなら、「戦争反対」であれ「夜露死苦」であれ、誰もトイレの壁に書きつけたりはしないのだから。

●落書きの当人は、イラク攻撃当時の社会情勢について、こう述べている。《文化も政治も経済も「専門家」に任せきりで、「観客」であるしかないばかりか、茶番劇の「エキストラ」に動員されてしまいかねない。この社会がスペクタクル社会だということ。それ(=スペクタクル社会)は退屈だということは知っている。知っていることを知らないふりをする必要はない。不当な人々はいない! スペクタクル社会が廃棄されるのだ! ・・・・・・といったような思いがあり、たぶん落書きをしたのです。》
●ちなみに、同サイトによれば「スペクタクル社会」とは《多くの人々が受動的な観客の位置に押し込められた世界、映画の観客のようにただ眺めることしか残されていない、資本主義の究極の統治形態》とのこと。

●私は、彼の洞察や動機がおおよそうなずける。しかし、そうした茶番と退屈の社会が、落書きによっていくらかでも廃棄できるのだとしたら、それは、落書きという行為が、見つかれば叱られたり捕まったりする非日常的な冒険であるからにほかならない。だから、この程度の咎めは初めから覚悟のうえだったはずだ。検察の仕打ちはやりすぎだと思うが、「やりすぎだからいけない」というのでは、落書きの本義は死んでしまうのではないか。

●とまあ適当なことを書きながら、つくづく思う。イラクは遠い。この世界が「スペクタクル社会」なら、アメリカ軍もイラク市民も、こんど赴くかもしれない自衛隊員も、落書きの彼も、私にとっては、見せ物の域を出ない。彼を救うことも必要だ。しかし、彼はいわばスペクタクル社会から現実の裁判へと一歩脱けだしたのだ。あいかわらず救いがたいのは、むしろ私たち、私かもしれない。