東京永久観光

【2019 輪廻転生】

だから私は日記を書く

《WWWを知った9年前、個人的なことは書くまいと思った》
《Web日記が流行し始めたときも、「自分は書かないぞ」と決意したものだ。》
そういう人がウェブ日記を始めずにはいられなくなった理由とは?

《 》は「高木浩光茨城県つくば市 の日記」からの引用。
http://d.hatena.ne.jp/HiromitsuTakagi/20030505

この新しい日記を見つけて「お!」と驚いた。最近ネット上で読んだRFIDに関する記事(下)を書いた人であり、それに対して巻き起こった議論(下)も少し読んでいた。その人が「はてなダイアリー」に……。
http://it.nikkei.co.jp/it/njh/njh.cfm?i=20030421s2000s2
http://www.hyuki.com/yukiwiki/wiki.cgi?RFID%C8%BF%B1%FE%A5%EA%A5%F3%A5%AF%BD%B8

でもなんで驚くのだろう。ものをいう場所を他のメディアも含めていくらか確保していそうな人であっても、ウェブ日記でしか解決できない、満たされないなにかがあるのだろうか、という思いに直面したせいかもしれない。

それだけでもない。

インターネットには区切りがない、国境すらないということになっているのだが、それでも、同じ「はてな」に日記を書いている状態というのは、なんだか同じ店にいて、他の客を離れたところから見ているような感じがある。ずいぶん狭い世界だ。そこに、最近どこかで見かけた人が入ってきたので「おや」と思った、ということだろう。――たぶんその店はユニクロで、襟が空色の四角いTシャツをみんなそろって着ている(?)。

これは気のせいか、というとそうでもない。周知のごとく、「はてな」では「リンク元」つまりその日記をどこのサイトから見にきたのかが日付単位で一目瞭然になる。この仕組みが、こうした気分に明らかに影響しているというのが正解だろう。「コメントを書く」を開けば自分だけでなく誰でもそれが見える(見えない設定にもできる)。ウェブ日記を読んでいて、このサイトとこのサイトはなんとなく近いみたいだ、などと感じることはよくあるわけだが、そうした「なんとなく」の関係が、白黒はっきり数値もはっきりの関係に転じたというところがポイントだ。

まあこのことはとうに御存知の人が多いはずだ。また、べつに「はてな」が先駆なのではなく、「ブログ」の名で呼ばれるサイト整理統合システムの多くがそうである、というのがウェブの正しい歴史理解(みんなが知っている方の)だろう。それがブログの本質であり、他の日記サイトとの違いの本質もまたそうであろう。ちなみに「tDiary」が同様のシステムを備えていることも、言及されているとおりだ。

それにしても、この人が「はてな」に入ってきたとき、その文章が読めただけでなく、当人の表情までがぼんやり察知できたのはどういうことだ。怪奇! 「はてな」はそこまですごいシステムなのか。というと、それは早とちりで、先に述べたネットの記事にこの方の顔写真が付いていたからにすぎない。

さてさて冒頭の話に戻るが、こうしたリンク元表示などのシステムのおかげで、特定領域に関心のある少人数のコミュニティーが、メーリングリストとは違って柔軟に形成される状況になったことが、日記を書き始めた理由の一つであると、高木さんは述べている。

これはとても共感できる。

でもそれと同時に、もともとの「ウェブ日記は書くまい」「自分は書かないぞ」という強い決意のほうにも、しみじみうなずける気がした(そのわりに私はウェブ日記を一応ずっと書いてきてしまったのだけれど)。そもそもそういう決意がどこから来るのかというところに、興味と疑いがあるのだ。そして、おかしなことに、全く逆の「自分のことをウェブに書きたくてしかたない」という気持ちもまた私には強い。それは当然、ウェブに日記を書いている多くの人に共通しているだろう。


ウェブ日記という存在やそこで書かれた文章は、そもそも個人的なものなのか、実は個人的なものではないのか、といった問いも、この話に関連させていいかもしれない。高木さんがウェブ日記を形容するのに「個人的」と鍵カッコを付けたのも、そういう拘りだろう。

去年の暮れごろ「ブログ」という言葉が登場していらい、この言葉をめぐってソリの合わないふたつの立場があることがはっきりしてきたが、その違いは、たとえば先にあげた「リンク元などとの結びつき」が自分のコントロールを超えて顕在化してしまうことへの是非と重なるのかもしれないし、さらには、《個人的なことは書くまい》といった思いがあったときに、その決意を自分はどう処理するのか、その処理の仕方の違いといったことも関係しているのではないか。そんなことを感じた。

「ブログ」という言葉は、ウェブにある一定の方向で起こっていた現象に名前を与えたと指摘される。と同時に、ウェブ日記に関してこれまで寡黙でクラスターを成していなかった一定の大きな言い分(ブログ的なのは嫌だ)をも、顕在化させてしまったように思う。