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【2019 輪廻転生】

インターネットの読み書き変容 [6]


インターネットの読み書き変容 [6]5index


■ウェブ時代に文学の位置は


6-1 ウェブを読むのは文学を読むのと違うのか
 文化庁の調査によれば、1ヶ月に何冊くらい本を読むかとの問いに、38%の人が「全く読まない」と答えたそうだ(16歳以上が対象、雑誌と漫画は除く)。その一方、日本のインターネット利用者は03年中に6千万人を越すと予測されている(『インターネット白書』)。本の冊数は初めての調査なので、いわゆる活字離れの傾向については分からない。しかし、ウェブサイトのブラウズを読む行為に含めるならば、昔は存在しなかったその分量や時間が、今や無視できないほど大きいことは間違いない。人によっては、本よりウェブサイトのほうを多く読むということも十分ありうる。
 「書く」という行為がインターネットによって初めて一般人に普及し、その結果ウェブサイトには無名の無数の文章が溢れかえるようになった。ここまでその変化の意義を考えてきた。では、そうしたウェブサイトのブラウズが日常化したことで、我々の「読む」という行為や意識にも、なにか異変が生じていないだろうか。そのとき、本を読むこと、とりわけ文学作品を読むことは、ウェブのブラウズとは違う特別なポジションを確保しているのだろうか。
 まず率直な実感としては、長時間ウェブサイトをブラウズしたあげく、ふと傍らに置いてある小説本などを開いたときには、同じ文字情報でありながら、かなり異なった新鮮な読みの感触を味わうことが多い。
 もちろんこれは大まかな印象にすぎない。その理由もいろいろ思いつく。だいたいウェブも小説も中身は多様だし、読む動機も違うし、パソコンや書物とのなじみぐあいも影響するだろう。しかし、そうではあるものの、なにかを読むということが、実はいつも必ず同質の体験ではないのかもしれないと、気づかされたこと自体は重要だ。読む対象が書物だけだったときは、そのようなことを省みる機会はあまりなかったのだから。しかも、その質の差は案外大きいと感じられる。両者の比較から、読むことの実質が新しく見えてくる可能性がある。もう少し吟味してみよう。
 なお、これまで個人のサイトに注目してきたが、ここではそれに限らず、一般的な企業や団体のサイトから、ニュースをはじめとした情報提供サイト、『Yahoo! JAPAN』などの総合サイト、『2ちゃんねる』などの巨大掲示板まで、要するに広範に利用されていると思われるウェブサイト全般を念頭におく。ウェブには画像や音声も含まれるが、文章だけを対象にする。また、書物にもいろいろあるが、とくに小説を読むことに焦点を絞る。


6-2 ウェブのノンリニア
 さて、ウェブサイトの各ページを書物のページと比較したとき、最大の特徴はハイパーリンクの機能だろう。ウェブには無数のページが切り離されて遍在しているわけだが、それらは必ずリンクによって他の複数のページと直接つながっている。リンクはページの途中でもかまわず挿入されるし、当然のことのようにして、書き手やサイトを超えて張りめぐらされている。読み手は、こうした複雑多岐なネットワークをたどることで、始まりも終わりもはっきりせず方向も定まらない多数のページを、自由な経路で連結させて読んでいくことになる。ウェブでは、読むことのリニア性(直線性)というものが成り立たないのだ。すでにわかりきっていて驚かないが、これは文章の積み上げ方としても、読む行為や意識としても、書物とは明らかに異なっている。ちなみに、ポスト構造主義の思想でリゾームという概念が知られてきたが、ウェブにそれが実体化したと思った人は多かったにちがいない。
 このリンク機能を活用し、多くのウェブサイトが、読み手に対して実に親切な作りをしている。新聞社のサイトなどを思い浮かべるといいが、たとえば一覧できる目次が多角的、多層的に設けられ、利用者は探しているトピックに直感的に素早くたどりつける。「アバウト」「プロフィール」「FAQ」といったガイドを掲げるのも一般的だ。そもそもここは何のサイトか、このページは何があるのか、といった根本の戸惑いが起こらないよう、あるいは起こってもそのつど解消できるよう、万全の構えをしている。読んでいる途中で知らない語句やわかりづらい内容にぶつかった場合も、なんらかのリンクが施されており、クリックすればその説明や参照事項が表示される。ひとつのページが飽きるほど長いようなことも避けられている。これには、商用のサイトが顧客を逃がさない目的もあるのだろうが、それにしても、ウェブサイトは読み手に対して至れり尽くせりだ。


6-3 ウェブの変動性
 リンクとならんで注目すべきウェブサイトの特徴は、掲載された文章の流動性だ。読み終えたはずのページに、いつのまにか加筆や修正がなされている。それがいつまでも繰り返される。逆にページや文章が消えてしまうこともある。当然だが、そのようなことは書物では起こらない。これに加えて、ウェブはただ読まされるだけではない。サイトによっては、読んでいるページ自体に感想や質問を書き込むことが可能だ。読み手は書き手にもなりうる。
 こうした特徴から「分散」のキーワードが再び思い出される。先の引用で、仲俣暁生氏がウェブサイトのブログ化を評して使った言葉だ。ウェブでは話題や議論というものが複数のサイトにまたがって生成し変動していると考えられた。そうであれば、そうしたウェブの話題や議論を読んでいく感触もまた「分散」という新しい概念でこそ捉えられるだろう。ウェブでは、なんらかの認識であれ享楽であれ、情報であれ資料であれ、いずれも「分散」した読みを通して初めて把握できると言っていい。読んでいるものの中心や境界を探してもなかなか見定められない。また、すでに触れたが、ある話題で複数のページがひとまとまりになっていても、読み方に決まりはなく、読むページもその順序も読み手自身が選べる。「分散」の読みに加えて「自律」の読みがそこにある。


6-4 分散と開放の読み
 こうなるとやはり、小説のページを読むのとはあまりにも対照的だ。小説を読むというのは、はっきり閉じたかたちで与えられた文章のすべてを、初めの一行から終わりの一行まで一直線にたどることだ。ただ一筋の文章のなかに長い時間や意識を没入させることだ。いったい何が語られているのか、すぐに把握しかねる小説もあるが、内容のFAQ、主人公のプロフィールといったものが別項で示されたりはしない。いかに奇妙でいかに難しい世界が展開されようと、ひたすら読み続けるしかない。もちろん読み手は文章を追加することなどできず、質問も差しはさめない。小説を読みふけるとは、黙ることに等しいのだ。ただし、その代わりというわけでもないが、小説の中身は変化も消滅もしない。過去から未来まで、いつ誰がひもといても永久に同一の文章が読める。
 もう一度、ウェブをブラウズしている体験を胸に手をあてて思い出そう。ひとつのページや文章に留まっている時間はあまりに短くないだろうか。それを読み進めるにもスキップしながらというのが当たり前になっていないだろうか。少しでも退屈だったり読みづらかったりすれば、そのページに拘わることなく、さっさとリンク先に飛んでしまう。気が散るより早く、ページの文章が散ってくれるというわけだ。また、パソコンに向かいながらテレビを見たり音楽を聴いたりもするだろう。本や雑誌をめくりつつウェブをブラウズする、といった行動も平気でできるだろう。これもまた「分散」の読みだとみなしたとき、そうか読書とはそもそも「集中」の読みだったのだと、改めて気づかされる。それどころか、小説などを長時間集中して読む体験のほうが、かえって不自然に感じられるところにまで、我々は至っているかもしれない。驚きだ。
 とはいえ、これはべつに困ったことではないという人もいるだろう。ウェブをあちこち動き回る体験が、固定的で閉鎖的なページに束縛されていた読書を、新しい読みの可能性へと開放したといった解釈もありうる。商用のウェブサイトなどが利用者にきわめて親切だと述べた。一方で、小説をふくめた出版物もまた、消費財として読みやすいものが歓迎される傾向もあるようだが、両者は関連した現象かもしれない。
 しかし、そうではありながら、あるいはそうであるからこそ、我々はときとして、開放性や分散性など否応なく奪われてしまうような、一方的な読みの体験に浸ってみたくもある。無謀さを覚悟しつつ自らを全面的に委ねてしまえるような小説に焦がれてもいる。


6-5 舞城王太郎を読む
 こうした「読み」の対比のなかに、たとえば舞城王太郎氏の小説を置いてみるとどうだろう。
《減るもんじゃねーだろとか言われたのでとりあえずやってみたらちゃんと減った。私の自尊心。
 返せ。
 とか言ってももちろん佐野は返してくれないし、自尊心はそもそも返してもらうもんじゃなくて取り戻すもんだし、そもそも、別に好きじゃない相手とやるのはやっぱりどんな形であってもどんなふうであっても間違いなんだろう。佐野なんて私にとっては何でもない奴だったのに。好きだと言われたわけでもなく友達でもなく学校が同じだけでクラスもクラブも遊ぶグループも違う佐野明彦なんかと私はどうしてやっちゃったんだろう?
 お酒のせい?
 お酒のせいにするのは簡単だけど、でもそれはやっぱり違う。道義的に、とか倫理的に、とかの間違いじゃなくて、単純に本当じゃない。
 本当は、ちょっとやってみたかったからやったのだ。

 佐野明彦のチンチンは冗談のタネが無数に並んで全部爆発寸前って感じで小さかった。噂どおりだった。私には、ふーんじゃあその噂を確かめてみるかという軽い気持ちもあった。佐野明彦の、チンチンの小ささをカバーするための指テクとかゼツギとかの噂の真相にも、まあちょっとだけ興味があった。佐野のテクニックの良し悪しについてはよく判定できなかったけど、まあ仕方ないと思う。私はどうしても、ちょっとでも好きになった相手じゃないとのれないのだ。でも、それなりに濡れはしたということは、やはり佐野のテクはそれなりにあったんだろうし、てことは噂も本当だったと言えるんだろう。この私も、好きでもない佐野明彦にいろいろいじられて、ちゃんと濡れはしたのだ。
 最悪。》(「阿修羅ガール」)  
 冒頭いきなり腕をつかまれたかと思うと、そのままぐいぐい引きずられるようにページをめくらされる。やがて途方もなく奇矯な殺人が繰りひろげられ、有無を言わさずその進行に巻きこまれる。舞城小説に初めて遭遇した読者が抱く感想とはこういうものだろう。作品によっては、主人公がそのように特異であるべき理由、犯罪がそのように特異であるべき理由はというと、おざなりの説明で放置してあるが、それでも、常にトップギアで高速道路を滑るかのような読みを強いられることで、「なぜ」と足踏みする隙を与えられない。読者は作者の一方的な叙述の筋力に曝されるばかりだ。
 「阿修羅ガール」はことし(03年)の三島賞を受けたが、選考委員の宮本輝氏は強く抵抗したという。選評では《幼稚に暴れているパフォーマンス、もしくは無邪気な媚としか思えない》《面白くもなんともないただのこけおどし》などと断じたあと、こう吐き捨てる。《いったい何人のおとなが「阿修羅ガール」を最後まで読めるだろうか》。だが、あえてこれに応じるなら、「読める」も「読めない」もなく「読まされてしまう」が答ではないか。宮本氏は、文学には最低条件の分別が求められ、それを踏まえない「阿修羅ガール」など読めるものかといった気持ちなのだろう。たしかに宮本氏自身の小説などであれば、なじんだ題材やこなれた叙述の手応えに安心でき、それを支えに一歩ずつ足下や道のりを確かめながら読み進んでいける。舞城小説において読みを持続させている作用は、そのような文学として熟知されている作用とは、どうやらまったく異質らしい。宮本氏は、そうした不可解な作用が不本意であるがゆえに、打ち消したいのではないか。同じ選考委員の福田和也氏は、それを《まだ見ぬものへの畏れを喚起する楽しみ》として認知したとみられるが、その不可解さを分析しているわけではない。


6-6 中原昌也を読む
 もう一作、中原昌也氏の小説をここに並べてみよう。
《徹也はいま『醜いアヒルの家』にいる。空気と同じように体の廻りで青春の匂いが自然に漂っている彼……。誰でもそんな年齢を通過した記憶があるだろう。

「サカリのついた下等動物が放つような貴様の匂いは、本当に気に障る」
 深いため息。大きなゲップも、ついでに洩す。拳を強く握ると、指の関節が派手に鳴る。
「何とかしろ。何としようがないのなら、死ねばいい」
 青臭い匂いよりは血の匂いの方がマシだ、とばかりに小林は地味な灰色の縞模様の入ったTシャツに包まれた巨体を揺さぶりながら、パンタロンのズボンからはみ出た足でいきなり蹴った。気合の入った一撃。
 ひと蹴りで目で徹也は身をよじり、椅子から固いコンクリの床に叫びながら転落。小林には罪の意識なんてない。楽しげに鼻唄を口ずさみながら蹴る。白目をむいて、チョコボールのようなものをしきりに頬張りながら何度も蹴る。手は一切使わないのが基本だ。結局、手の関節をボキボキいわせたのは単なる景気づけでしかない……。以前、酒に酔った勢いで下手糞なアコーディオンを演奏しながら蹴ったこともあったが、この日は何も手に持っていない。困るほどに血気盛んなのだ。さらに興が乗れば時折、ご自慢のウィンチェスター散弾銃を徹也の頭に押しつけて脅すこともある。》(「あらゆる場所に花束が……」)
 やけにたくさんの物や形容や動作が生じている。それは、ぬるい単語ばかりが不必要にくどく並んだ結果にすぎない。だから、移ろいゆく状況がなかなか記憶や印象を成してこない。そう記述しなければならなかった理由も、いっこうに感じられない。集中しないと入り込めないが、入り込む甲斐がない。そんなぐあいに連なった文章を読み続けるのは、この表現の存在自体を笑う余裕がないかぎり、かなり苦痛だ。
 高橋源一郎氏は、この小説を《解読されるべき原文の存在しない暗号文》と評している(「文学へ」『小説トリッパー』01年秋季号)。ではそのとき、読者がこの小説を通して得られるものはなにかあるのか。あるいはこの小説を語る資格とは何なのか。それは「この小説を読んだ」という体験そのものをおいてほかにない。原文のない暗号文を前に、書き手と読み手がなにか共有できるとしたら、解読された原文でも解読の方法でもなく、暗号文それのみだ。どこで書き終えてもよく、どこで読み終えてもよいようなこの小説は、あえて最後まで忠実に読み通すことに意義を求めるしかない。こうして、いかにも読み進めがたいがゆえに、いやでも読み進めざるをえないという図式が、不幸にも成り立つ。否応なく読まされてしまうのが「阿修羅ガール」だとすれば、「あらゆる場所に花束が……」は、いやでも読まざるをえない小説なのだ。
「あらゆる場所に花束が……」もまた三島賞を受賞したが(01年)、やはり選考には大きな波乱があったようだ。高樹のぶ子氏は《全否定ですが多数決に従います》としか述べていない。支持に回った島田雅彦氏も《この作品に芥川賞を授ける蛮勇を持つ者はいまい。これを推した福田委員ともども針のむしろに坐ることにした》と、反発のほうをむしろ自明としている。この小説の評価もまた、文学の名のもとに保持されてきた品質とは一致しないらしい。
 したがって、「あらゆる場所に花束が……」「阿修羅ガール」の両作品が三島賞をあいついで受賞したことは、文学史の謎といっていい。作品が発してくる刺激の強さは明らかでも、何のセンサーが反応しているのかが、読者にも評者にも不可解なままだ。正統な文学の基準から遠いことがただ称揚されている。島田氏の弁からすれば、文学の顕教たる芥川賞に対して、三島賞密教への改宗を誘っているようでもある。おまえはこれを読めるのか、読めないのか。踏み絵のごとく突きつけられている。


6-7 容赦なく読まされる体験
 ここまでの論を整理してみる。読書にとって代わるほど習慣化したウェブサイトのブラウズには、分散の読み、開放の読みとでも呼べそうな新しい感触が生じている。それを反転する形で、これまでの読書、とりわけ小説を読む行為にあった集中性、閉鎖性という特質が、強く自覚されてきた。こうした視座から、それぞれにユニークな舞城小説と中原小説を、内容はわきにおいたうえで眺めてみれば、容赦なき読みの体験とでもいうべき最果ての位置にそろって輝いている。つまり、「阿修羅ガール」や「あらゆる場所に花束が……」が否応なく読めてしまう事態、いやでも読まざるをえない事態は、ウェブのブラウズを対置してこそ明白になる。
 だが、これだけの図式ではなお不可解かもしれない。小説の読みとウェブサイトのブラウズ、そこに言語体験として本質的な差があるとしたら、どういうものか。さらに考察を試みよう。


6-8 「読み」が顕在化するか否か
 ごく基本的なことだが、「読む」とは言葉を読むことだ。言葉を読むとは、ある言葉がある文脈で使われて生じる意味を解釈することだろう。この意味というものの正体については、たとえば「その言葉使いに作者が込めた意図を見つけだす」あるいは「その言葉使いが言語体系に及ぼす差異を見きわめる」といった立場などからさまざまに分析がなされてきたようだ。しかし、いずれの分析も、言葉の意味には揺れがあるという前提は同じだ。どのような言葉もそれが置かれた文脈にしたがって多様に解釈できる――その文脈が特権的な作者に由来するのか、言語体系という基盤に由来するのかはともかく――。
 我々がある言葉を読むとき、その意味や解釈というものが自分の思考のなかに生じていると感じられるが、それが揺れや多様性を伴っているかぎり、読んだ言葉と同レベルの明示的な言葉の姿をしているとは言いがたい。ところが、その言葉がウェブサイトに置かれるとどうなるか。そこでは、言葉の意味が、ときとして、場所を移して現れる別の言葉、時間を追って現れる別の言葉として、具体的に出現してくるように感じられるのではなかろうか。意味や解釈の揺れや多様性というものが、そのままリンク先の文章や追加された文章として実体化する感触だ。本論が使ってきた用語を持ちだせば、意味や解釈の「顕在化」だ。こうした、言葉から解釈への反応は、サイトを伝うたびにどこまでも連鎖していく。そうして周囲にかぎりなく広がったネットワークを、文脈の「顕在化」とみなすこともできよう。一言でいうなら、ウェブでは「読み」が「顕在化」するのだ。
 一方、小説という閉鎖された有限の世界では、ある言葉の意味が、その言葉と同レベルの言葉として新たに出現するような事態は起こらない。そのような外部は実在しない。意味や解釈は、常に読み手と小説の言葉とのあいだにあり、緊張と不透明さを保って浮遊している。小説の「読み」は「顕在化」しない。行間を読むというが、それは実際の言葉として読むわけではない。
 これはごく当たり前の原理だ。しかし、彫琢がゆきとどき緩急のバランスがとれた作品を読んでいるときは、それがあまり自覚されない。
《銀蔵爺さんの引く荷車が、雪見橋を渡って八人町への道に消えていった。
 雪は朝方やみ、確かに純白の光彩が街全体に敷きつめられた筈なのに、富山の街は、鈍い燻し銀の光にくるまれて暗く煙っている。
 達夫は背を屈め、両手に息を吹きかけ吹きかけ、いたち川のほとりを帰ってくると、家の前で立ち停って、すでに夕闇に包まれ始めている川面を眺めた。電線にまとわりつく雪がそこかしこでこぼれ落ち、身を屈めている野良犬を追い立てた。
 昭和三十七年三月の末である。

 西の空がかすかに赤かったが、それは街道に落ちるまでには至らなかった。光は、暗澹と横たわる大気を射抜く力も失せ、逆にすべての光沢を覆うかのように忍び降りては死んでいく。時折、狂ったような閃光が錯綜することはあっても、それはただ甍の雪や市電のレールをぎらつかせるだけで終ってしまう。
 一年を終えると、あたかも冬こそすべてであったように思われる。土が残雪であり、水が残雪であり、草が残雪であり、さらには光までが残雪の余韻だった。春があっても、夏があっても、そこには絶えず冬の胞子がひそんでいて、この裏日本特有の香気を年中重く澱ませていた。》(宮本輝「蛍川」)
 言葉と解釈の絡みあいが、適度な粘着性やこわばりとして作用しているかぎり、すなわち文学の共同性に収まっているかぎり、読みは快適に安定速度で進めるのだ。そのとき、言葉の解釈はいわば無意識のうちにある。明示的には必要とされない。ところが、言葉と解釈があまりに不整合になるような小説では、この原理がじわじわ効いてくる。
 たとえば「あらゆる場所に花束が……」なら、すでに触れたとおり、強度や遠近を欠いた表現ばかりが並ぶので、どうしても読みあぐねる。文章とは、無意識の解釈が後押ししないかぎり、なかなか読み進められないものなのだと改めてわかる。そのとき、文章を読む作業とは別に、その文章を適度に概観し整理させるような作業の必要性が意識されてくる。つまり解釈を顕在化させたい気持ちが生じる。しかし、小説という世界には小説の言葉以外に言葉はない。ページをめくり直しても、ページから目を離しても、小説の世界は固定している。リンクのボタンでどこかに逃れたくても適わない。言葉の意味、言葉の解釈というものが別の言葉となって実体化することはありえない。
 また、この「あらゆる場所に花束が……」は、いくらか我慢して読み進んでみるにせよ、どの場面も話の中身はとりつくしまがない。人物のふるまいはすべてどこか正気の水準を外し、状況も因果を欠いたままどんどん推移する。一例をあげれば、茂という男が自宅でペニスを露出させていると、その庭ではいつのまにかテレビの撮影が始まっている。しかしそこに大量のニワトリの死骸が見つかったため、撮影場所が近くの公園に移される。すると茂はなぜか機材の運搬を手伝い、照明の準備にかかったところ、照明係のチーフが親しげに握手を求めてきた。このようにおかしな場面がおかしなまま進行している。かとってそれを咎める描写はなく、「おかしい」と指摘する人物もいっこうに登場しない。もしこれがテレビのバラエティ番組などであれば、ボケをひとつも見逃すまいと狙うタレント陣がすかさずツッコミの言葉を顕在化させるので、場の緊張は笑いとして解消されていくだろう。しかしこの小説では、そのようなツッコミは顕在化しない。いや、どんな小説も外部からのツッコミなどそもそも出現しないのだ。読み手は、小説の言葉と一緒に最後まで迷い続けるしかない。
 ヴィム・ヴェンダース氏の映画などを見ていて、風変わりな人物たちがそろって風変わりな行動を延々繰りかえす場面で、むずがゆさが開放できないのも、それと似ている(『まわり道』など参照)。逆にウェブのネットワークは、いわば、このボケとツッコミの連動が頻繁に起こる場なのだ。ブログ的な日記ツールのひとつ「tDiary」を使った個人サイトで、読み手がコメントを書き込むことを「ツッコミを入れる」と称していることは、象徴的だ。
 さて、その反対に、一気に読み進んでしまう舞城小説の場合はどうか。こちらは、言葉に解釈があまりにぴたりと寄りそい、読みが、なんら引っ掛かりなく滑っているとみるべきだろう。解釈という無意識の作用が、文章の進行を滞らせるどころか、かえって文章を引っ張るかのように走り抜けているのだ。従来の小説がもつ、言葉と解釈の適度な絡みつきすら欠いている。そうして、言葉の流れと解釈の流れは一体となり、互いに速度を高めていく。すると、自転車で坂を駆け降りるときのような感覚が訪れる。足の力がペダルを回転させているのか、ペダルの回転で足が上下しているのか、わからなくなるのだ。そうなると、読みに対して、今度は後押しではなくむしろブレーキが欲しい。ここに、解釈という作用が、そのブレーキ役を期待されて意識にのぼってくる。しかし、やはり原理からいって、解釈の言葉が顕在化することはない。とりわけ舞城小説は行間も語の間もかぎりなく文字で埋まっている印象なので、解釈のつけいる隙などもとより感じられない。したがって、ブレーキを効かせるための解釈を、やはり小説のページから目を離して探そうとするだろう。しかし、小説の外に言葉はない。


6-9 ウェブでは意味が顕在化してしまう
 もうひとつ考察を進めておく。ウェブのネットワークでは、ある言葉の意味や解釈が、別の言葉として顕在化する――この原理は、言い換えれば、どの言葉も他の言葉の意味や解釈として存在するということでもある。実際の話として、我々がウェブをブラウズしていて、あるサイトに到達するのは、『Yahoo! JAPAN』や『Google』などの検索サイトでなにかを調べたり探したりした結果であることが多い。他のサイトからリンクをたどった場合も、やはり元のサイトにあったトピックとの関連でクリックしたはずだ。つまり、我々がウェブサイトで読んでいる文章は、事実上、他のなにかの用語やトピックに関する解説、資料、情報として機能している部分が大半ということになる。ウェブでは、我々はたいてい「なにかについて」読むのだ。「なにかそのもの」を読むのではない。そのような動機は少なくとも最初は排除されている。この「なにかそのもの」との出会いもまた、ウェブの読みを反転した形で、小説を読む体験に求められてくるのではないか。


6-10 固定した言語と生成する思考
 養老孟司氏は、情報というものは一定不変なのである、と意外な指摘をしている。言語という固定して変わらない情報記号が、常に変化する脳という物質システムによって担われている。同じく、遺伝子という固定して変わらない情報記号が、常に変化する細胞という物質システムによって担われている。かくして人間が生成される、といった見方だ。(『人間科学』参照)
 この見取り図を借りれば、小説の読みにおいては、思考が、固定された言葉をぬいながら運動すると言える。逆にウェブサイトでは、言葉自体がどんどん変化しているような感覚が生じる。思考に先立って言葉の運動のほうが顕在化するということだ。そのとき、思考はむしろ停止して、記号の役に回っているのかもしれない。
 また、言語と遺伝子がともに固定した記号であるという視点からは、小説を解読するイメージをゲノムの解読に重ねることができる。
 ヒトの遺伝子は、DNAのすべての配列とそれに対応するアミノ酸がすでに特定された。ただし問題は、そうした無数のアミノ酸をどう統合させれば、これほど複雑な人体が形成されるのかであり、その解明はまだ雲をつかむような段階とされる。では、その人体形成の手順はどこに書かれているのか。それもやはり、同じ遺伝子のDNA配列のなかにある。アミノ酸がつながってタンパク質となり、頭から足先まで多様な細胞を形成し、やがて組織や器官すべてを備えた個体が構築される。そうした設計プログラムはすべて、DNAという文字記号のリニアな配列それ自体のなかに埋め込まれていると考るしかない。
 小説もまた、その実体は無数の文字記号が一列に並んだものであり、それぞれの単語はアミノ酸のごとき辞書的意味を担っている。しかし、小説の総体としての世界は、そうした語や文が相互に複雑な反応を繰り返して初めて生成される。では、その反応を解読し小説世界を生成させる手順はどこに書かれているのか。これもまた、小説の言葉の配列それ自体のなかにある。探す場所は小説の外にはない。小説という、ゲノムにも似た文字列は、それ自体を忠実に読みんでいくプロセスのなかで、やがて命のような世界を発現させるだろう。読むことだけが、小説というゲノムのスイッチをオンにする。


6-11 小説を読む本質とは
 小説を読むということは、とても孤独で不安な行為なのだ。自分しか観客のいないスタジアムで、全く知らない競技が行われているのを黙々と見続けるようなものだ。そこにどんなルールがあり、何がどう展開して、どうなったら終わりなのか。実況や解説は誰もしてくれない。歓声も聞こえない。勝敗があるかどうかすらわからない。では何故だ。わけのわからないこのページを、迷いも退屈も振りはらい、一行たりとも目をそらさず観戦しようとするが、それはいったい何のためだ。――しかし、こうも考えられる。そもそもそこでプレーしている作家という人こそが、競技の成立にむけた信念に震えつつ、疑念に怯えつつ、ぎりぎりの球を一人打ち続けているにちがいない。孤独というならば、小説を書くことほど孤独な行為はないのだ。我々は、球の動きを丹念に追っていくくらいの面倒には耐えなければならない。その奇異な文章の生成と進行にそのまま寄りそってみる奇異で無謀な試みにこそ、小説を読む本質がある。


6-12 小説は事後的にのみ存立する
 詩と小説の違いについて、高橋源一郎氏が興味深いことを語っている。詩は、詩人が書くから詩であり、《極限概念としては、詩を書かない詩人も存在しうる》。しかし小説はそうではないと言う。《小説を書いた人間が事後的に小説家になる》。だから《書かないけど小説家ということはあり得ない》。(「ボルヘスナボコフの間に」『すばる』03年5月号)
 この極論を読み手の側に引きつければ、こうなるだろう。読まれない詩はありうるが、小説は読まれなければ存立しない。あるいは、小説を読んだ人間が事後的に小説の読者になる。
 高橋氏はさらにこう語る。《どこかから入ってどこかへ出る。それが散文の歩みです。(略)…一番重要なのは、その作品を通過することによって、読者がその作品に入る前に比べて、一つの経験値が増えることです。それが可能なのは、読者が作品の中で、その作品の構造に沿って自然に物を考えることができるようになるからです。簡単に言ってしまえば、小説は認識の芸術です。作者がトレースした言葉の運動によって、読者のほうに、ある一つの認識が起こってくる。そういう構造になっています。ですから、入り口と出口があるものが小説なんです》。
 小説による認識は、内容や形式から判読する以前に、入り口から出口までトレースする「体験」自体と切り離せない。そのような見方が浮上する。舞城氏や中原氏の小説の位置をウェブとの対比で計ってきたが、それもまた、小説を読む「体験」をめぐる考察だったと言える。


6-13 90年代小説はウェブと正反対
 こうした考察を乱暴に拡張すれば、90年代に登場して注目された保坂和志氏、多和田葉子氏、町田康氏といった作家の小説も、それぞれ独特の調子で冗長なまでに持続する文章をひたすら読み遂げる体験の質を吟味せずには、評価が成り立たないと思われる。語られる人物とその出来事が伝える人間や社会の切実さよりも、語りの持続それ自体が反映する読むという現実の切実さにこそ惹かれてしまうのだ。
 さらに80年代を振り返れば、村上春樹氏や高橋源一郎氏の初期の小説などが、「軽さ」「ポップ」といったキーワードで注目されたが、これも実は、小説の内実というより、それを読む体験について言及したものだろう。この「軽さ」「ポップ」は、80年代に進行した文化の融合や多極化、あるいは、浅田彰氏の「シラケつつノリ、ノリつつシラケること」(『構造と力』)という文言にも象徴される脱構築、といった動向と関連が深いようだ。こうした動向が小説を含めた表現全般に行き渡り、それを受けとる側も「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」読みの体験を恒常化させたと考えられる。
 これを踏まえると、分散、開放のウェブとは、80年の脱構築が90年代になって具現化した姿ではないかと思えてくる。そうなると、上に挙げた90年代の小説は、まったく対照的で、いわば「ノリつづける」もしくは「シラケつづける」構築の読みの体験を、あえて回復しようとしたかのようだ。その先端に出現したものが、中原昌也氏や舞城王太郎氏の小説だった。――あまりに大ざっぱな括りであり、材料も限定されているが、こうした仮説も可能だろう。
 

6-14 「私」を読む体験の二分化
 さて、小説の直進性・閉鎖性、ウェブの分散性・開放性といった対比をしてきたわけだが、これは実は、すでに述べたウェブ日記とブログそれぞれの特徴にも相似している。
 個人がウェブサイトに書きつづる日記は、サイトの構造が単純でリンクやコメント欄もなく、比較的長い文章が一続きになっているタイプが少なくない。サイト名と筆者名のほかは何の情報も添えられていないこともある。新しい文章が冒頭に更新されていく形式は小説作品とは明らかに違うが、見方を変えれば、古い日付と新しい日付が逆になっただけで、すべての文章を反対方向ではあるが直進して漏れなく読んでいるのだとも言える。それに対して、ブログのツールを使って構築された個人サイトの多くは、記事は分割され独立しており、一方向に読むことはあまり想定されていない。また多数のリンクやコメントがあり、サイト内外を参照しながら読むことが前提となっている。
 小説を読むというのは、ただ一人だけの話に長時間つきあわされるようなものだ。従来のウェブ日記には、そうした、ひとつの「私」をリニアにたどっていく読み方が保たれていた。これも、ウェブのシステムがブログへと切り替わるなかで変質してきている。「私」の有りようもまたリニアな存在から分散された存在として認識しなおす契機が、ここにあるだろう。
 また、先に、ウェブを利用するときは「なにかについて」読むばかりで「なにかそのもの」を読むという動機が欠けていると指摘した。これについても、同じウェブではあっても、見知らぬ個人の日記を複数当てもなく読みたどるときなどに、そのような「なにかそのもの」との出会いが、まるで事故のようにして起こることがある。
 したがって、ここで検討した読みの問題は、ウェブのブラウズという新しい体験が促したものではあるが、だからといって、インターネットか印刷物かという媒体の違いに帰結する話ではない。たとえば、雑誌などはもともとウェブのブラウズに近い読み方だろうし、逆に、ウェブにも小説作品は数多く掲載され熱心に読まれてもいる。提起したいのは、読むという体験がそれほど普遍でも単純でもなく、その体験自体から小説に独自の意義が見いだしうること、それにつきる。そうした観点に立った考察と実践を、小説にもウェブにも期待したい。=終=


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