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【2019 輪廻転生】

インターネットの読み書き変容 [5]


インターネットの読み書き変容 [5]4index6


■インターネット=「私」が浮上するシステム


 ブログをめぐる論争をいくつかクリップしてきた。その核心は、一つにはこうだろう。――ウェブ日記が浮上させた「私」が、ブログという新しい潮流によってグローバル化を迫られている。さてどうする――。その是非の判定を急ぐつもりはない。それよりも、こうした論争自体に、実は大きな意義が見出せることを最後に指摘したい。その意義とは、この論争が、ウェブ上の「私」がなんらかのシステムに絡んで初めて出現するという前提を、自覚させずにおかないことだ。この点から、社交性と引きこもり性の対立と見えた先の議論をもう一度掘り起こし、さらには明治の言文一致もまた振り返りつつ、本稿をしめくくりたい。


5-1 「私」を支える特異で微妙なシステム
 ブログではなくウェブ日記特有のコミュニケーションこそ大事にしたい。そういう風野春樹氏の意見を先に引用した。この気持ちをもう一度検討するために、二年ほど前の日記を開かせてもらう。精神科医の風野氏は、自分のページを持つ別の人から来たメールを紹介しながら、こう述べている。
《自分のページについて、他人から感想のメールが来ると嫌な気分になることがある、というのである。「なんでわざわざ」「そっとしておいれくれればいいのに」と思うのだそうだ。別に中傷や批判に限らず、たとえば「私と似ている」という共感のメールでもそうだという。かまってほしいのだけどほっておいてほしいという矛盾した気持ちがある、とその方は書いていた。(…)/たぶんこの方は、自分のメッセージを、そっと、誰でもない他者に向かって発信していたつもりだったのだろう。それが、感想メールによって、名前のある個人という生々しい存在をふいに意識してしまったので嫌な気分になったのかもしれない(…)。/(…)それならネットになんか公開しないでローカルに保存しとけばいいじゃないか、と思う人もいるかもしれないが、それじゃダメなのだ。公開しない日記を書くのは自分に向かって書く行為である。そして、自分と直接向かい合うにはそれなりのエネルギーがいる。そうではなく、ケーブルの先にいる漠然とした「誰か」、ただカウンタの回り方だけでわかる「誰か」に宛てたメッセージを書くということ。たぶん、その方がひたすら自分に向かって書くよりも敷居が低いのだろう。だから、今まで日記なんて書く習慣のなかった人までもが、こうしてウェブ日記を書いているんじゃないだろうか。》(http://member.nifty.ne.jp/windyfield/diary0106b.html#15
 共感のメールすら辛く感じる「私」。今この「私」がブログによる開放化に応じたならば、そこに生じる濃厚な「関係」に、ますます動揺してしまうだろう。
 ただし、この分析の焦点は別にある。この「私」が、なんとも奇妙な「誰か」に支えられてやっと立ち上がれるという構図を見すえたことだ。「かまってほしいのだけどほっておいてほしい」。そんな「誰か」を仮構し、同時に「私」を安定させているのが、ウェブ日記というシステムだ。それは生々しい自分の姿とは違う。引き出しの日記帳で直視するのとは、少し違った「私」だ。
 ブログの新システムは、たしかに、そんな「私」の安定を破壊しかねない。しかし、その不安の前提には、この「私」が、そもそもウェブ日記という別のシステムなしでは消滅してしまうという思いがあるのだ。


5-2 中間領域の「私」
 では、もう一つ引用しよう。今度は、ブログ的なコミュニケーションに新しい期待を表明した記事だ。
《「はてな」に限らず、いまウェブログ(あるいはブログ)という名で呼ばれ話題になっているインターネット上の「日記+リンク+コメント」統合システムの特徴は、そこでの言葉のやりとりで生まれる人間関係が、ぼくがインターネットに触れて最初に感じた「中間領域の知り合いの幅」をさらに拡大させるシステムであることだと思う。/(…)ウェブログとか「はてな」のサイトで散見される言葉は、ただの「個人のホンネ」ではない。他人の言葉を参照し、自分の考えと他人の考えをつきつけあい、自己と他の間の共通分母を時間をかけてのんびりと探していくような、そういう思考のマナーができあがりつつある。(…)/世間で言われているほどインターネットは速報性のメディアではなく、むしろ、インターネットは基本的に非同期が前提であり、そのぶん時間をかけた思考が可能なメディアであるということは、ウェブログや「はてな」のサービスが示していることだと思う。/こういう形で現れてくる文章と思考の形態を、ぼくは「分散ジャーナリズム」と名付けたいと思う。(…)世界中で別々の場所で別の日常を生きている人たちの真摯な思考が、少しずつ寄り合わさって、力強い言葉になっていく。そういううねりのようなものの予感を、いま世界中でだれもが感じ始めているのではないか。》(仲俣暁生「分散ジャーナリズムとしてのウェブログ」『ITビジネス&ニュース』http://it.nikkei.co.jp/it/njh/njh.cfm?i=20030529s2000s2
 ブログ全体の動向から最も良質な可能性を冷静に察知した意見だと思う。仲俣氏は、現実の関係とは重ならないような「中間領域」に気づき、そこから生じる新しい形態の思考や言葉に強い期待を寄せている。おそらく、そうした関係や思考の手応えとして、また新しい「私」が浮上するのだ。こんな不思議な「私」の場所を探すなら、やはり、ブログをはじめとしたウェブのシステム以外にありえない。そのことも、仲俣氏はしっかり認識しているに違いない。
 実をいうと、この仲俣氏の発言に対し、風野氏は別の日記で否定的に言及している。たしかに、二人が志向するコミュニケーションは、その濃淡において異なるのかもしれない。しかし、両者はともに、ウェブというまったく独自のシステムの、さらに微妙な均衡によって「私」が浮上してくることを強く自覚している。しかも、そこに現実の限界を超えるようなコミュニケーションを託しているところも、きわめて共通しているのだ。


5-3 ウェブやブログのツールなくして「私」なし
 ブログ論争の核心とも思われた社交性と引きこもり性は、正反対の志向に見えるけれど、ウェブの可能性を探す前提や手つきとしては、意外に似通っている。これを念頭において、ウェブ日記、ブログの両システムと「私」の関りを、改めて描いてみる。
 ウェブ日記は嬉々として「私」を表出してきた。それは好きなように出し入れし、積み上げていける「私」だった。ところが、ここにブログというシステムが介入すると、自分だけのコントロールを超えてしまう。「私」はグローバルに規格化され、干渉され、交配されてしまう。マーケットに上場までされそうな勢いだ。もはや「私」は「私」のものではない。
 しかしここで過去、といってもほんの数年前を振り返ってみよう。そもそもウェブ日記が「私」を文章化したこと自体が、「私」から神秘のベールを剥ぎとる帰結をはらんでいたではないか。「私」はウェブ日記のシステムと無縁にはありえなかった。この危ういバランスは、ウェブ日記を書いてきた当の「私」だからこそ、つくづく身にしみた。
 すでに強調してきた通り、これは、さらに遠い過去において、近代文学が言文一致というシステムを得て初めて「内面」を浮上させたのと同じ構図だ。その繰り返しのなかで、読み書きのからくりが我々にも見えてきた。
 それを再確認して、ふたたび現在のブログ現象に目を凝らそう。
 ブログというツールを手に入れて初めて日記を書き始めたような人なら、ブログへの過剰な感激と期待をあらわにすることもあるだろう。――これほど自在に「内面」が表現でき、これほど明瞭に「関係」が結ばれるのだから、透明な「私」や誤謬のない社会というものが、ついに実現できるかもしれない――というふうに。しかし、すでに長くウェブ日記を書いてウェブ日記の限界にもうすうす感づいている人なら、彼らにニヒルな視線を送るだろう。――その感激は錯覚かもしれない。ブログもただのシステムだ。彼らはすさまじくウェブ日記を書いたことがないゆえに、それに気づけないだけだ――。無邪気な無自覚。ブログを賞賛する声が耳に障るとしたら、このあたりだろう。
 しかし、さらに一歩進んで考える。ウェブ日記の正体を、ウェブ日記の実践だけが明らかにできるのなら、ブログについても、やはりブログ的な実践のなかでこそ見えてくるものがあるはずだ。ほかでもない、現在のブログをめぐる論争は、いくつか意見を検討してみた限り、そうした方向にしっかり光を当てていると、私は感じている。


5-4 ウェブの実践=ウェブの考察
 ブログをめぐる議論はウェブ上で今なお活発だ。「ブログのコンテンツはブログばかり」と冷やかされもするが、さほど誇張ではない。しかし、これは見方を換えれば、ウェブによるウェブのためのウェブ論だ。ある読み書きのシステムについて、いっそう良いシステムを実現するために、システムの担い手自らが、しかもそのシステムの実践そのものとして、議論を繰り広げているということだ。
 でもウェブの担い手がウェブのことを考えるのは当たりまえじゃないか。取りたてて指摘するまでもないだろう。――そんな声も返ってきそうだ。しかし、本当に当たりまえだろうか。自らの読み書きを自らの読み書きによって吟味する。それは当たりまえだっただろうか。
 たとえば、明治の言文一致によって確立したとされる文学はどうだったか。報道や学術といった分野ではどうだったか。その読み書きは、その読み書きを成立させた起源や根本のシステムを十分意識して行われてきただろうか。漠然とした印象だが、文学作品やニュース、研究論文といった読み書きの当事者にとって、そのシステム自体への本格的な反省は、後追いでしか生じていないし、いつも傍流でしかないようにも見える。そのことで、言論の神秘性を真実性と取り違えるような一面もあったのではないか。
 それを考えれば、ウェブ上の読み書きが、その発端から、自らへの懐疑や刷新を重要なモチーフにして進められているのは、とても対照的だ。これには、コンピュータやインターネットの技術や媒体性が一時も休まず進化しているせいで、使い手がその読み書きの要領をたえず意識せざるをえないことが、大いに関連している。また、本稿の前半でも考察したように、近代の言論が専門家だけに担われたのと違って、インターネットでは万人が書き手に転じたことが、大いに貢献している。
 もちろん、高橋源一郎氏が指摘したように、能天気な書き手もいるのだろう。あるいは、たとえばブログを完璧な表現ツールとして疑わない人もいないわけでない。しかし、毎日更新される数多くのウェブサイトをたどっていくならば、読み書きすることの深みや、驚き、あるいは危うさを、まざまざと覗かせてくれる文章にも、間違いなく出会えるのだ。
 明治の言文一致から100余年り。我々は、自ら読み書きする足場を初めてインターネットに確保した。そして、初めて「私」を顕在化させた。しかも、それがいかようにも揺れ動く「私」であることも、また実感してしまった。「私」はシステムに依存する。システムに依存して変容する。システム自体も変容する。このことを我々は、ウェブサイトの読み書きを更新するごとに、あるいはそのシステムを更新するごとに、何度も何度も感じ取っていくことだろう。
 インターネットによって浮上した「私」なら、ブログによろうがよるまいが、やがてまた、インターネットによる変容を被ることは避けられまい。しかし「私」は、自らの起源をまだ忘れないでいる。ウェブ日記であれ、ブログであれ、「私」の顕在化は、そのシステムによって為されたにすぎない。だがシステムによってしか為されない。このシステムの大海を「私」は泳いでいくしかない。この諦めにも似た自覚は、むしろ希望なのだ。


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