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【2019 輪廻転生】

インターネットの読み書き変容 [4]


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■ブログ論争=「私」の争奪戦


 このブログという圧倒的に強い風を、個人サイトの作り手自身はどう受けとめているのだろう。その様子はインターネットに数多く書き記されている。ブログに関心の高い人には周知かもしれないが、いくつか紹介しながら、その焦点を探ってみたい。
 

4-1 歴史に残るブログ論争
 実は、ブログという言葉のにわかな流行を苦々しく眺める人たちがいる。昨年秋にはインターネット史にも残ろうという衝突が起こった。その火種は、ウェブ上ではすっかり有名になったこの発言だった。
《blogが一般的になったときに、「mesh抜きでは日本におけるblog草創期を語れない」と言われるようなサイトにしていきたいですね。(言いすぎ?)》(myojin「blog by mesh」『another mitsuhiro's blog』http://bloggers.ja.bz/myojin/archives/000002.html
 東京大学大学院 新領域創成科学研究科のメディア環境学研究室(mesh)がブログのサイトを開設した際、あるスタッフがまず書き込んだメッセージだ。邪気のない抱負と思えるが、ブログが輸入される以前から事実上ブログ的なサイトを長く運営してきた人たち、すなわち従来から個人サイトで日記などを書き続けていた人たちには、聞き捨てならなかったようだ。反発の炎が一斉にあがった。
《「blog草創期」という物言いやその周辺の顔ぶれを眺めると何か胡散臭さ、もう少し失礼な言葉を使うなら山っ気を感じてしまうのだ。彼らはこの十年間日本において独自の展開を遂げてきた個人サイト(ウェブ日記個人ニュースサイトテキストサイト)史を踏まえた上で「これからは blog だぜ」と言えるだけの、サイトの見た目の瀟洒さ以上の新規性、独自性、必然性を見せてくれているだろうか。》(yomoyomo「I can't blog.」『YAMDAS Project』http://www1.neweb.ne.jp/wa/yamdas/column/technique/blog.html
東京大学新利権創成科学研究科は院生も利権創成に余念がないようだな。過去をまったく見ずして。「mesh抜きでは日本におけるblog草創期を語れない」と言われるようなサイトにしていきたいですね。(言いすぎ?)。言いすぎでぃ!!/(…)blogは草創期は過ぎ,すでに定着期に入っていると思う。》(赤尾晃一「日本web日記学会は鮒寿司かよ!!」『わかば日記』http://www.akaokoichi.net/a-news.cgi?date=2002.11.10)*引用者:赤尾氏が主導する「日本Web日記学会」は、この直後「日本ウェブログ学会」に名称変更したもよう。
「ブログ」という新しい勢力には日本のウェブサイトが未開拓に見えたのだろう。だが実際には「ウェブ日記」という先住民が定着しており、存在を無視された彼らが強国の領土侵犯に激しく抵抗した、という図式だ。この紛争が飛び火する形で、ブログをめぐる論争がウェブ上で絶え間なく繰り返されてきた。
 ただし、昔ながらの「ウェブ日記」対 新しい「ブログ」という二つの陣営がはっきり対峙しているわけではない。ブログの「ツール」と「名称」それぞれへの多様な賛否が交錯しているし、ブログの作り手同士でも意見の相違は目立つからだ。とはいえ、こうした論争が、ウェブ上に潜在していたソリの合わない勢力を互いに意識させたことは確かだ。ブログという流行現象は、ウェブにすでに台頭していた一定の志向に初めて名前と輪郭を与えたと言われる。と同時に、これまでひたすら日記をつづり情報を集めながらも寡黙でいた人たちの、また別の志向のいくつかを「ブログ的なのは嫌だ」というクラスターにまとめてしまったのだ。
 では、その志向の本質的な成分は何だろう。たとえば、ブログを歓迎する志向からは「社交性」という成分が取り出せるように思われる。代表的な意見を拾ってみよう。


4-2 ブログの社交性
《初期の日本の個人Webサイト(Web日記、テキストサイト、ニュースサイト)系コミュニケーションは、コミュニティの内輪で閉じた形のものが多く、それ以外とのコミュニケーション(コミュニティ以外からのリンク)に対しては抵抗感を持つ人が多かったという印象があります。/(…)Webサイト自体は開かれている(誰でも同じように見ることができる)のに、そこでのコミュニケーションがやけに閉じられているという現状に、私は不満があります。/(…)/で、そういう状況を変えるために、個人Webサイト同士がリンクしあう状況をもっと加速してしまいたい。そして、Webサイト内で閉じている状態、あるいは狭いコミュニティ内のリンクのみで閉じている状態を、Webサイト全体がリンクでつながっていくような状態に変えてしまいたい。》(ishinao「個人Webサイト系コミュニケーションに関する展望」『ishinao.net』http://ishinao.net/WikiLike/?sid=331
《WWWを知った9年前、個人的なことは書くまいと思ったのを覚えている。Web日記が流行し始めたときも、「自分は書かないぞ」と決意したものだ。(…)小さなコメント機能はあっても議論の場とはならないし、誰かの反感を買ってどこか知らないところであれこれ言われるのは不安だ。それに、「これは個人的な日記だから」と暗に反論を牽制する結果をもたらす仕組みになっているのも、自分には合わないと思っていたし、そうした牽制を必要とする話題を書く動機がなかった。/だが、状況は変わってきた。tDiaryなどのRefererを自動集計してくれる便利な日記システムや、検索能力の高いGoogleの登場で、特定の話題に関心を持った少数の人たちのコミュニティが形成されるようになってきた。》(高木浩光「日記を書くことにする」『高木浩光茨城県つくば市 の日記』http://d.hatena.ne.jp/HiromitsuTakagi/20030505
 これに加えて、ブログの、サイトの見栄えが美しい点、更新しやすい点、検索エンジンに探知されやすい点を絶賛する意見もある。社交性を高める効果をツール自体に期待している、といったところだ。
《サイトを見に来るのは、何も人間だけでなく、検索エンジンのロボットやスパイダーと呼ばれる、検索エンジンのシステムがそれに該当します。彼らが見るのは、表向きのデザインや見栄えではなく、言語構造やリンク構造です。(…)/MTに限らず、BLOG自体が、この「美しさ」「更新しやすさ」「リンクされやすさ」という点で、理にかなっていることが直感的にわかります。/「新ネットワーク思考」を読むとさらに、これを選ぶこと自体が種族保存に近い生理的な選択だったような気がしてならないです。/マニアックな視点ですが、このMovableTypeに出会った瞬間のわくわく感って、ある意味、ネットワーク社会を生きていくうえで、理想のパートナーに出会えた時の直感に近いのかもしれません。》(hirosh「MovableTypeに直感的にほれ込んだ。」『創庵』http://soan.jp/archives/000228.html
《この「MovableType」というシステムは、実は一見見えない部分、管理者がいかにサイトを管理しやすくするか、というところに重点が置かれています。(…)/このようなこともあり、かつWEBブラウザ経由ですぐに記事をアップできる仕組み、「MT it!」などの他記事から簡単に引用できる仕組みが用意されていることもあって、更新頻度を高めることができるというわけです。更新頻度を高めることができれば、それだけ見に来てくれる人も増えます。見に来てくれる人が増えれば、そこにコメントを残してくれる人が増え、それが結果として新たな人と人のつながりを生み出すことに繋がります。》(ERI ODASHIMA「MTを使う理由」『eblog』http://www.c-plusc.com/erimt/archives/000132.html)  
 対人「関係」であれ、対検索エンジンの「関係」であれ、つながりを増強してくれるブログの傑出した能力が評価されている。
 少々意地悪く言い足すなら、成長しスキルアップしていく「私」の更新や蓄積がスムーズになり、自由に着飾ることもでき、しかもそうした社交性を備えた「私」であれば、友人や企業の眼にもとまりやすくなる、ということだ。だが逆に、きょう会った人のこと、きのう読んだ本のこと、ことごとくブログ化しなければならない。さもないと「私」が流出し損失を被ってしまう。社交性への志向は、そんな競争社会の切実さもいくらか反映しているのではないか。
 こうしたブログの明瞭な社交性にはなじまず、これまでのウェブ日記にあった希薄なコミュニケーションこそ大切にしたいという、全く対照的な志向がある。


4-3 ブログの引きこもり性
ウェブログはコミュニケーションを重視する。盛んに他人の記事を引用するし、たいがいコメントエリアがついている。明快で活発なコミュニケーション。実にわかりやすい。これぞ新時代のコミュニケーション! という印象だ。しかし、日本型のウェブ日記の世界には、かつてからもっと別種のコミュニケーションがあったのではないか。/(…)たとえばRead Me!や日記才人の一票のような、きわめて間接的で淡々としたコミュニケーション。日々誰に向けているのでもないテキストを淡々と書き、そしてどこかにそれを読んでくれる読み手がいる、ということに心を癒され、直接感想メールが来たりすると、かすかな苛立ちを感じずにはいられないような、そんな「コミュニケーション」。/(…)細い、細い糸で結ばれたような儚いコミュニケーション。そもそもウェブ日記にとってもっとも重要だったのは、そうしたコミュニケーションだったように思うのである。》(風野春樹「読冊日記」『新・サイコドクターあばれ旅http://member.nifty.ne.jp/windyfield/200305c.html#29
 こうした気持ちを、あえて「引きこもり性」と呼んで理解しようとする人がいる。意外かもしれないが、前述の『はてな』を創設した近藤淳也氏だ。「引きこもり」とは聞こえが悪いが、否定すべき志向と捉えたのではない。先に「社交性」という言葉を挙げたのも、これに応じたものだ。
 近藤氏は、ウェブサイトが「XML」という共通書式で見出しや要約を公開すれば、他のユーザーも中身を把握しやすくなることに触れつつ、次のように語る。
XMLによる外部へのデータ提供は、日本人の「引きこもり性」に合っていないのではないかと思うことがあります。自分のホームページのデータを誰でも勝手に使えるように公開するという方法と、日本人の持つ「ホームページ」という私物感とが相容れないのではないかと思うのです。海外では、ホームページを作成し公開するということは、万人に公開することだという認識があると思うのですが、日本では「我が家へようこそ」というのがホームページに対する認識ではないでしょうか。/(…)例えばはてなアンテナでも、日記サイトを運営している人が「勝手に自分の日記をアンテナにのせるな」というケースがあります。自分が書いたものが勝手に世界中に広がっていくということが、日本人の心理モデルに合わないという根源的な問題がある。》(田中良和「「日本人にはBlogより日記」、はてなの人気に迫る」『CNET Japanhttp://japan.cnet.com/news/maker/story/0,2000047861,20053530-1,00.htm


4-4 グローバル化を迫られる「私」=ブログ
 インターネットとは言いながら、まだかなり個人の内に、あるいはローカルに閉じていたい本音も根強かった。そこに、個人のサイトを本当に障壁なく開放させようとする機運が到来した。ウェブ日記として安定していた「私」が、グローバル化を迫られているのだ。それに適した新しい規格の「私」を産みだすのが、ブログだ。あらゆる「私」は世界標準で表出され配置され連結されるだろう。もはやブログしない「私」は顕在化しない。――それを望む気持ち、嫌う気持ち。正反対の志向がせめぎ合っている。
 サイト上の表現を小説を書くことに喩えるなら、グローバル化とは、手塩にかけた自分の作品が、文芸誌の規格に合わせること、フリーマーケットで競売されること、その両方を一度に強要されているようなものだろう。
 グローバル化というと大げさだろうか。しかし実際、ブログはそれくらいもてはやされてきたのだ。だから、その華々しさ自体へのシニカルな呟きも聞こえてくる。
《こういう人たちは既存のメディアとかと組んでわいわいやって、そのうちいなくなって、実際のインターネットには何にも残さないんだよな。歴史になんねえじゃんあんたら。いい迷惑だよ。》(さやわか「ぼくとワレワレ #66」『ニーツオルグhttp://www.neats.org/log/2002_11_a.html
《ずーっとblogばっかり見てて思ったのは、飽きた。全部四角いのな、お前ら。そんで下の方の手狭なところにいろいろゴチャゴチャリンク詰め込んで小さい字でいっぱい何か書いてんの。あとスタイルシートでリンクのトコがぼやーとしてんの。俺に言わせれば全部一緒だよ。ちょうつまんねえ。何がクールなサイトが簡単に作れるだよ。全部四角いだけじゃん。四角ければカッコいいのか?》(同「ぼくとワレワレ #72」『同』http://www.neats.org/log/2003_02_a.html
 なるほど、たしかにブロッグのサイトは四角い。そしてここからは勝手な同調だが、その四角い区切りは、ちょっと息苦しく、そこから「私」がはみ出すことがけっこう難しくも思えるのだ。となると、ブログのサイトがカラフルで斬新に画面構成していることも、なんだかユニクロの色違いをそろって着ているように感じられる。そのポロシャツを脱いでしまえば、たいした「私」などいないんだろう、そこに収まる程度の「内面」や「関係」しかないんだろう、といったぐあい。よくあるツートンカラーの画面が、ふとコンビニの電飾を思い出さなくもない。
 アメリカ、日本両方のブログ現象を観察、分析してきた人の、秀逸なジョークも一つ紹介しよう。
《にっき-けい【日記系】ド素人がいじましくネットの片隅で自己表現しているさま。〈類語〉テキスト系、個人ニュースサイト/ぶろぐ【BLOG】イケてる業界人がメディアの規制に煩わされることなくご意見をパブリッシュしているさま。〈類語〉カウンターカルチャー/はやくわたしもBLOGになりたい。》(demi『Beltorchiccahttp://www14.big.or.jp/~onmars/index.cgi?date=2002.11.08&pass=
 もう一例。最近話題になった『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』(森川嘉一郎)は、都市や建物を形成していく主体が「官」から「民」へさらには「個」へと推移してきたことを、秋葉原と渋谷の対比などから検証するという独創的なフィールドワークを展開したが、この対比をブログ論争に重ねた絶妙な見解も飛び出した。
《この本が書いている、渋谷を中心とする欧米かぶれ上昇志向と秋葉原の日本的なオタクという分類は、web日記とblogの話にもあてはまるのではないかと思った。(…)/インターネット関連業界は、秋葉原系オタクだけのものではなく、もともとアメリカ発の技術だったということもあって、アメリカの技術やビジネスにあこがれた、この本でいう渋谷な人たちも同じように惹きつけていた。しかし、最近まで日本の個人サイトコミュニケーションについてはオタクの人たちが中心だった。/そこへ、アメリカで同様なものが流行したということで、渋谷な人たちがblogという名のもとに大挙して参入してきた。それを見て、私は今まで個人サイトであまり見かけなかった新しい文化圏が加わったなと思ったが、その文化圏はビジネスに近い。》(yuco「「趣都の誕生 萌える都市アキハバラ」をblog議論にあてはめてみる」『yuco.net』http://www.yuco.net/diary/20030508.html#p01
 インターネットによって素人がようやく手中にした自分の「内面」。それを今さら玄人の仕切る学術や経済に取り込まれたり、混じり合わされたりしてたまるか。そんな懐疑や警戒がにじんでいると言うべきか。事実ブログは、今まさにネットビジネスの動向を左右する存在として視線を注がれている。誰もが「私」というコンテンツを手にしたいのだ。それは結局システムによって引き出される。そのシステムを牛耳れば、膨大な「私」の集積を牛耳ることになるだろう。そこから逃れたい「私」がいる。


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