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【2019 輪廻転生】

『ニッポンの小説』 もう何も生えないのかというと…


高橋源一郎『ニッポンの小説 ―百年の孤独asin:416368610X

なにか言いたいはずなのに、うまく言えない。どうしていいか分からない。それだけが小説なのだ。だからこそ小説を書いていたいのだ。ニッポン死すとも、小説は死なず! ――だいたいこんな要約と結論で、いかが?

高橋源一郎は、やはり、「言語では表現しえないなにか」について考え続ける人なのだ。言語では表現しえないなにか。たとえば「死者を描くこと」、たとえば「他者と関わること」、たとえば「存在とは何か」、たとえば「コミュニケートすること」。

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師匠「神とはいかなるものか、答えよ」
弟子「森羅万象の創造主です」
師匠「くだらぬ。神はそのようなものではない」
弟子「では、これこれこういうものですか」
師匠「あまい。わかっとらんな」
弟子「では、かくかくしかじかのものでしょうか」
師匠「それも違う」
弟子「ということは…。もしや神は、へのへのほげほげの……」
師匠「おしい。だが神はそれともまた違うのじゃ」

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こういうのを否定神学というらしい。つまりこうした問答によって「神とは説明できない神秘なんだな」ということになって、イメージや価値が限りなく膨らんでいく。

で、この「神」の代わりに「文学」を入れれば、あらふしぎ、高橋源一郎の評論が出来上がる。というわけで、「高橋源一郎の文学論は否定神学だ」とつとに指摘されていたのだが、今回の『ニッポンの小説』でつくづくそれだと確信した。

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ただ私には、「否定神学」とは別にむくむくとわき上がってきたもうひとつのフレーズがある。それは「かたりえぬ ものについては ちんもくを せなばならない せねばならない」という歌である。いや歌ではない、これはもちろんウィトゲンシュタイン論理哲学論考のラスト1行だ。

『ニッポンの小説』と『論理哲学論考』。この二つがきれいに相似しているとともにくっきり対称をなしていることについて、私は諸君に説明してみたい。でもその話は、長くなるから、掲示板のポスターを……、ではなく、また後日。

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このごろ本を真面目に読む。つまり付箋しながら読む。『盲目の時計職人』も感想をはてなに書いて「決済案件」にしたはずが、じつは付箋はそのままだった。それで、剥がしながらまた拾い読みしたところ、驚きの洞察がいくつも埋もれていた(それはまだはてなに書いていない)。侮れない。

そういうわけで。『ニッポンの小説』も、もうだいぶ前にさっと一度で読み切っていたのだ。ところが付箋がなんだか終盤のほうにまとまって生えている。どうも気になる。仕方なく剥がしてメモしてみたところ、案の定大変なことになった。しかもその代わり、野矢茂樹『『論理哲学論考』を読む』のほうに付箋がもっとたくさん生えてしまった。

それにしても、最初の私はいったい何を読んでいたのだろう。読んでも分からなかったのか。分かったけど忘れたのか。『百年の孤独』ではないが、書いておかないと忘れてしまうというのは、私の場合ともかく間違いない。だから付箋する。メモする。だがじつはメモすると安心してよけい忘れてしまう。そういうことも明らかになってきた。だてに年はとらない。それがもったいないからこそ、はてなに何か書いておく。いやはてなに書いても忘れる。でもこんどは、はてなキーワードとかグーグルといった機械のほうが、私に代わって時たま思い出してくれるので、いくらか大丈夫なのである。

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以下は、『ニッポンの小説』で付箋が密生していた部分、「エピローグ――補講」後半のまとめ。論旨はわりとすっきり。

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高橋源一郎は、『破戒』『暗夜行路』『金閣寺』『インストール』と、100年を隔てた別々の小説から一節ずつを示してみせた後、こう評する。

しかし、別の観点から見れば、これらは、どれも非常に似通ったものなのです。
 これらの文章では、どの場合も、作者は、まずなにかいいたいことがあって、それからおもむろに、その内容を説明しています。そして、そのためには、言葉が必要だということになっています。もっと重要なのは、言葉というものが、細かく、ていねいに使われれば使われるほど、うまく説明ができる、ものだと思われていることです》。

わたしは、長い間、この四つに代表される(略)「ニッポンの小説」の文章に、異和を感じてきました。(略)そして、この四つと対立するかに見える、いくつかの文章を紹介し、その特徴をあげてみることにしたのです》。

四つと対立するかに見える文章とは、この前にも後にも出る猫田道子『うわさのベーコン』や中原昌也の小説などだと思われる。

残念ながら、その作業は、なかなかうまくいきませんでした。というのも、これら四つの文章について語るように、それと対立する文章を語ることは、ひどく難しいのです。
 いったい、それはどういう理由だろう、とわたしは考えました。
 どうして、わたしの考えは、堂々巡りをしたり、同じことを繰り返したりするのだろう、要するに、どうして論理的な筋道をたどることができないのだろう、と考えたのです》。

その秘密をめぐって、夏目漱石夢十夜』第7話、および、それを「ニッポンの小説」の最良の例として「徹底的に考察した」という江藤淳『作家は行動する』を続けて引用する。それについて高橋は――

ここでいわれているのは、ソウセキという作家が、「存在」というものと微妙な関係を築いていたということです。あるいは、ソウセキという作家は、言葉にすることが不可能な「存在」というものを抱えもっていて、その「存在」との緊張関係が、ソウセキの「散文」を鍛え上げた、ということです》。

しかし、この文章の中に、「存在」について直接、書かれたものは見つかりません。「存在」とは、「散文」によって表現される「以前」のもので、それを直接、言語化することなど不可能だとこの批評家は考えているように、わたしには思えたのです》。

ソウセキは、「ニッポンの小説」の離陸に立ち会いながら、同時に、異和をも表明していました。それは『夢十夜』とは異なる、明快な「散文」作品中に、不思議な形で存在しています。つまり、解読しえない、ある独特な質感として残されているのです。
 わたしたちは、やはり、それを一括して、「存在」と呼びたいと思います。そして、そこで立ち止まるのです。なぜなら、その「存在」について語る方法を、わたしたちは、知らないのです》。

そして、《これまでに、わたしが紹介した文章たちもまた、そのような運命を甘んじて受け入れていたのではなかったでしょうか》として、改めて引用するのが『うわさのベーコン』と『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』。これらを読んで私たちは困惑すると高橋は言う。

そのような奇妙な言葉を目の前にする時、人々は、いつも、同じ反応を繰り返してきたのです。
 それはただの「存在」にすぎなく、まだ「言葉」以前のものでしかない。だから、早く、我々にも理解できる「言葉」になれ。その時には、きちんと読んであげよう、と》。

ここでいったんブレイク。そしてまさにエピローグ的なつぶやきで終わる。

みなさん……わたしが、ほんとうに望んでいるのは、あなたたちとコミュニケートすることです》。それなのに、《わたしは、いままで、一度も、うまく話すことができたと思ったことがありません》。

ところで、わたしが作家になったのは、というか、小説を書くようになったのは、おそらく、十九歳の時、失語症になったからです》。

その体験(会いにきた恋人の前で黙り込んだままだった)を回想し、《あの時、わたしは、なにかを話すということが恐ろしくなったのです。誰かになにかを話すということは、ほんらい、不可能なのだと思ったのです。言語を使って、誰かとコミュニケートするということが、異常なものであることに気づいたのです》。

しかし、高橋源一郎は、だから言葉を使うのをそのまま辞めてしまったのではない。逆だ。

わたしは、どこかにいる誰かとコミュニケートしたかったのです……いや、もっと簡単なことです。わたしは、あなたと話したかったのです。そして、そのための道具といえば、わたしには言葉しかありませんでした。
 わたしが、小説を書きはじめたのは、小説というものには奇妙な性質があるような気がしたからです》。

これが言語一般というより、こと小説の性質であるらしいことに、ぜひとも注意したほうがいいと私は思うのだが、それはつまり後日。ともあれ、すぐこれに続いて。

その奇妙な性質とは、小説もまた言葉を使っているのに、というか、言葉しか使っていないのに、その言葉に唯々諾々と従っているだけのおとなしい羊ではない、ということでした》。

そんなわけで、高橋は小説をあてもなく書きはじめた。

つまり、そこには、人間というものが別の人間とコミュニケートするための方法が、そうでなくとも、可能性が書かれているのではないか、と考えたのです》。

それから長い時が流れた。

だがあいかわらずうまく話すことができません》。

もしかしたら、結局のところ、わたしの願いは叶えられないのかもしれません。誰かとコミュニケートするということは、不可能なのかもしれません。それでも、わたしは、小説を書き続け、小説について考えつづけるにちがいありません。
 なぜなら、小説というものを書きつづけ、あるいは考えつづける限り、わたしは、いつまでも、そこに留まりつづけることができるからです。
 そこ、とは、およそ、言葉というもののふるまいの一切に、真剣に聞き入ることのできる場所、言葉というものがなにをしようとしているのか、言葉というものが、にんげんになにをさせようとしているのかを見つめることのできる場所、つまり、小説という場所のことです》。