東京永久観光

【2019 輪廻転生】

ブログ世界の広さと狭さ


どのポータルサイトもブログサービスを提供するようになって、ブログの総数というのは間違いなく増えているのだろう。そうなると、1人の人間はいったい何人の人間が毎日書くことを毎日フォローできるのか、などと余計な心配をしたくなる。個人が日々のインターネットに期待する役割の総量に対して、その役割を担えるブログの総量はすでに飽和しているのではないか、と。

はてなアンテナ(ブックマークしたサイトの更新と内容がチェックできるサービス)は、200までサイトを登録できる(無料ユーザーの場合)。アンテナに追加しようかどうしようかという局面では、すでにブラウズしているサイトの総数もさることながら、内容の分散度も大いに関係してくる。新しく出会ったブログが、これまでにない傾向や個性を醸していれば、これからもぜひブラウズしようと思う。しかし、アンテナに200近くあるサイトですでに馴染みになっているAさんのブログやBさんのブログと似かよったブログだったなら、内容に十分価値があってももうパスしようかという気持ちが働く。物語に登場するキャラクターの役割に一定のセットがあるように、日々ブラウズして読むブログにも案外決まった役割のセットがあって、役割がかぶるブログであれば日常的にはそういくつも重複しては読まないのではなかろうか。

ブログという領土や人口が拡大すると、ユーザーの繋がりは多彩化・複合化していくようで、実はいくつかの島インターネットに分散して互いに孤立していくだけ、という気がしないでもないのだ。

実際のところ、新しいブログサービスや新しいユーザーというのは、少なくとも当初は心理的にやや遠く感じられる。逆に、長年利用している「はてな」は、まるで国みたいで、実質的あるいは観念的な共同性まで感じだす、ということを以前書いた(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20041205)。

そうなると、私は「Aさん・Bさん・Cさん」のブログを不可欠なものとして毎日セットで読んでいるけれど、インターネットの他の場所では、「AさんBさんCさん」をまったく知らず「Aさんによく似たXさん・Bさんによく似たYさん・Cさんによく似たZさん」のブログだけをセットで読んでいる人が存在しうる。

また、世界中(といっても私の世界は日本語の世界にすぎないが)の人々がこぞってブログを持つようになれば、自分にそっくりのパーソナリティーやバックグラウンドを持つヤツが、どこかのブログでそっくりなことを書くようになるだろう。そこでは、そっくりなコメントやトラックバックもまた、自分には関わりなく行き交うのだろう。

いや、すでに、tokyocatは重複・飽和しているのか? そのもう一人のtokyocat
に、私はそろそろどこかで出会くわすのか?

しかし、上述したように、インターネットは広大であるわりに閉鎖性や偏りがまだまだ大きいから、たとえばマダガスカルブータンの人と私がなかなか出会わないように、そっくりな二人であっても結局出会わないままそれぞれの人生を終えることもあるのか? 

それとも、インターネットにはやはりボーダーは存在しないと考えるべきなのか? どのブログサービスであれ、クリックひとつで飛べるしコメントやリンクも自由だ。似た者ブログなら、リンクをたどり検索を繰り返しつつ、必ずや互いを探し当てる。すれ違ってしまうことは絶対ない。――のだろうか?

なんだか、宇宙のどこかに地球に似た星を探すような話になってきた。

ということで、思いはさらにめぐって――

これまでに誕生した人間の総数(5百億〜1千億人)に負けないくらい、現存の65億人というのは膨大すぎる、といったことを下に書いた(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050414)。さらに言えば、日本の人口1億2千万余すら、もはや個人が想像したり実効的に関わったりできる数ではないのではないか。それどころか、はてなの人口(20万人?)だって、どのように向き合うべき数なのか、よく分からない。

しかし、ここから話は急転回する――。

宇宙が出来てまだ137億年なのに、太陽系(地球)ができてもう46億年ということも下に書いた。しかも太陽はさらに50億年は燃え続けるという。やっぱりちょっとスケールの割合がおかしいとも感じられる。しかしこれはつまり「宇宙はまだ若い」ということなのではないか。宇宙がこのまま(可能かどうはは知らないが)何百兆、何千兆年と持続していったならば、太陽系のようなまとまりは何度も生まれ変わることだろう。なんというか、この宇宙は「まだ1周目」ということなんじゃないか。そして、我々のインターネットやブログもまた、今はまだ一周目を回っている最中なのだ。なんとも直観的な話でしかないが、これに比較して、たとえば1945以降の「戦後」などというものは、もう何周もしてしまったように私は感じる。

我々のブログはまだ1周目。――したがって、島インターネットとか、そっくりなブログが互いに知らずに棲息しているとか、上に述べたけれど、その見方は間違っている。インターネットやブログはまだ十分に若く、狭い。だから今はまだ、少なくとも日本語のブログであれば、我々は行き着くべきところに必ず行き着く。出会いたい人には必ず出会える。求めるものがどうしても見つからないとしたら、それはどこかに隠れているのではなく、やはりまだどこにも出てきていないのだ。それが正解なのではなかろうか。