《…大半は40歳、50歳というところで人生は失敗するのだろう。なにも悲観的なことが言いたいわけでもない。》
いろいろなことを思う。
「いつまで生きられるのか」にくわえて、立ちはだかるのは、「いつまで生きねばならぬのか」。
とはいえ、たいして長くはない。だが、どうやら、そう短くもない。――《適当に暮す》としたばあいですら。fifty-fifty ?
もしまだはっきり成功を求めるなら、先はもっと短く感じるだろう。希有にもはっきり成功しつつあるのなら、なおさら短く感じるのだろう。
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ともあれ、私は生きるのがいやだと思うことはあまりない。どちらかといえば、ずっとこのままでいたい、死ぬのはいやだなと、つきつめればそればかりだ。それが救いなのか救いがたいのか、本当によくわからないのだけれど。
ただ、「死にたくない」というのは、贅沢な鈍感な悩みなのかもしれない。「生きたくない」に比べたらという意味でもあるが、それよりなにより、そもそも「ちゃんと生きられない」「まともに生きられない」に比べたらという意味だ。この「ちゃんとまともに生きられるのか」という不安を見なくていい人だけが、あるいは見ないようにしている人だけが、「死にたくない」などと言える。
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悟りとかいう。悟った人というのが、たとえばさっき見たテレビのキャスターみたい人を指すのなら、あまりにも興味がない。あるいは、悟る人はこの世に滅多にいませんとか細木先生のお叱りを受けなければ悟れませんとかいう場合も、それまたどうでもいい。大人の70%ではなく、30%でもなく、0.03%でもなく、たとえばどうだろう、5%くらい(消費税と同じ!)の人が40代、50代あたりでなにかを悟るべくして悟るのだとしたら…! それは非常に興味深い。可能性も低くない。サトエリ。
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それにしても、10年、20年という年月は、あっという間であるのと同時に永遠のように長い。だから20代と40代ではきっとアンダマン海とオホーツク海ほど違う。20歳には40歳を想像できない。それを考えると、70歳や80歳には、はるかにもっと想像を絶することが起こるのだろう。楽しみ半分。死ぬより先に地獄や天国が本気で平気で姿を現わすかもしれないのだ。ほんの数十年、永遠をあと数回。
上記引用は、『極東ブログ』2005.03.29より(http://finalvent.cocolog-nifty.com/)