東京永久観光

【2019 輪廻転生】

偏ったブログ

女性国際戦犯法廷」を扱ったNHK番組の改変に政権が関与したという朝日の報道をめぐって

取材や報道の手法やその説明責任がこんなものでいいのかという問題、安倍たたきには政治的背景があるだろうという問題、戦争を裁くこと自体とそれに加えてあの種の裁きが正当なのかという問題、などなど関心はつきないが、それとは別次元でどうしてもひっかかることについて一言。

偏った素材による偏った主張のテレビ番組が出来たら、政権の首脳やNHKの上層部というのは、ケシカランと思ったりビビったりするのだということ、それだけでなく放送を禁じようともできるのだということ、それがありありと分かった。その番組を私は見ていないが、改変前には「慰安婦問題に天皇はものすごく有罪」とだけ主張していたようで、「だから偏っている!」というのが今や彼らだけでなく国民的な前提になっている(朝日新聞も、番組が偏っていたこと自体を否定しようとはしていない)。では逆に「慰安婦問題に天皇はものすごく無罪」とだけ主張するような番組だったらどうなのだろう。偏っているというなら、私は両方とも「偏っている」と思う。しかし、この程度の偏りに対して直ちに「放送を制限して当然」と感じてしまう社会や会社のほうこそ、悪い意味で偏っている。

「鬼畜米英!」とか「日本鬼子!」という主張だったら、それはさすがに議論ではなく喧嘩が目的みたいであり、もっといえば戦争でもしようかという主張みたいで、みっともない。だが「天皇の戦争責任」というテーマは、それとは違うように思う。

あるいは、実際この種の主張が強い人には、議論を求めているようであんがい議論を目的としていない、むしろ喧嘩を売ってしまっているようなところがあるのかもしれない。しかし仮にそうだとしても、それはそれとして余裕をもって受けとめる余地が私たちにはないのだろうか。たとえば北朝鮮の番組だったらいかに偏っていようが面白がって流したり見たりしているのに。天皇への非難だけは、政府やNHKをはじめとしてそれほど「穏やかでない」問題なのか。

そもそも、作り手の「勝手」(「自由」と言ってもいいが、少しへりくだって)というものは、上司とか外野といったフィルターにかかってしまうと、ぜんぜん通らないんだなあ、それでいいのかなあ、という根本的な虚しさ。たとえばこういうところに書くものなら、少なくとも誰かにお伺いを立てるようなことは誰だってしていないだろう。

それはそうと、テレビにしばしば「偏ってるぞ!」と文句をつけてばかりなのは、かくいう私なのだった(もちろんそれは私が偏っているせいだ)。

ちょっと追加:
曲作りというのは、あれこれ手を加えて作り込んでいくと、マイルドな良品にはなっていくが、初めに浮かんだときの粗っぽい面白みは徐々に消えてしまって、かえってつまらなくなるものだ、といった趣旨のことを、たしか山下達郎がどこかで述べていた(まったく記憶のかぎりなので注意のこと)。