東京永久観光

【2019 輪廻転生】

蛇口をひねれば金がじゃぶじゃぶ そんなもんそれでいいのだよ

――20日のコメント欄を受けて――

「愛は買えるか否か」は規約による、というのはナルホドですね。それを踏まえたうえで我々は、どうやら規約を使い分けている、つまり「買える愛」と「買えない愛」の両方を区別しつつ扱っているようです。さらに我々は「愛ではないものとしての金」も使えば、「愛としての金」も使います。「贈与」の本質が「愛としての金」なのかもしれません。

というわけで、<私はだれかから無償の愛と同じく無償の金をもらいたい。そして私もだれかに無償の愛と同じく無償の金をあげたい。それ以外の愛や金はいわば電気や水の消費と変わらない>、これが本日の結論かも。

たとえば「労働は辛い」と感じてしまうのがなにか大きな勘違いであるかもしれないように、「金は努力や能力の指標である」なんてのも、あまりに重篤な勘違いでありうると私は強く言いたい。我々が金をそのような指標としてしか実感できず使用もできないのは、いつの世も同じさと言われるかもしれませんが、とりわけ現在はその傾向が強いようにも見えます。

「球団は買えるか否か」も、「球団を買う」の規約によるのでしょう(そこには分析哲学的な規約もあれば、プロ野球界の具体的で閉鎖的な規約もありましょうが)。ともあれ、「金で買えない価値」として「プロ野球」が思い浮かぶのは、日本社会の住人ならけっこうまっとうなセンスだと思います。

以前、糸井重里について、「面白くなければ儲からない」と思っているのか、「儲からなければ面白くない」と思っているのか、どっちだろうと疑問を投げかけた(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20030515)。
糸井氏なら堀江氏をどう評価するのか、知りたい。