東京永久観光

【2019 輪廻転生】

まだ知らないというか、もう知らないというか

南京大虐殺で何万人死んだのか、私は知らない。ペンタゴンに旅客機が本当に突っ込んだのかどうかと同じくらい知らない。イラク大量破壊兵器保有していたかどうかもついこの間まで分からなかった。ロンドンハーツのブラックメールがやらせかやらせでないかすら、私は教えてもらっていない。そして、少なくともそれが不明であることの責任は、少なくとも私にはない。悩んでも仕方ない。ケンカしても始まらない。日本の若い人どうしなら、天動説と地動説のどちらが正しいかと同じくらい、明るく楽しく議論してはどうだろう。いや天動説と地動説でもケンカは起こるのか。絶望!


抗議受け漫画休載 南京大虐殺めぐり集英社 (共同通信)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041013-00000094-kyodo-soci


南京大虐殺 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA

真っ当なコダワリ

だいぶ遅くなったけど、追加。

今回の騒動を《馬鹿げたコダワリ》と評したフレーズがあって、印象に残った。
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20041020#p1

このばあい、馬鹿げたコダワリをしているのは、ええっと、自虐史観の人(サヨクとも呼ばれる)じゃなくて、自溺史観の人(ウヨクとも呼ばれる)のことだね――、といちいち指さし確認しないといけないのは、国民のコダワリもいろいろだからだ(人生も)。

そして私もいろいろ考える。自溺側から自虐側への攻撃は「馬鹿げたコダワリ」だけれど「馬鹿げたマチガイ」とまでは言えないのかな。また「馬鹿げたコダワリ」だけれど「真っ当なコダワリ」とまでは言えないのかな。じゃあ逆に、自虐側から自溺側への攻撃はどれに当るのかな。この議論で、不審と不信が右に左にぐらぐら揺れてしまうのは、いつもこのあたり。

この議論、形式だけみれば対称構造だと思う。もちろん形式より中身のほうが刺激は強いし大事でもあろう。しかしそのせいで、この議論では形式のほうがいつもウヤムヤにされているようで、気持ち悪い。

すなわち――。<自溺側は「日本がアジアを侵略したという歴史は誤りだ」と主張している>と自虐側は主張する。しかし実際の議論では、自溺側の主張の焦点は、「歴史は誤りだ」よりむしろ、「自虐側の言い方は誤りだ」である場合もけっこうある。これに対して自虐側は「歴史は誤りではない」と証拠を示して反論する。しかしそれは「自虐側の言い方は誤りではない」の証拠にはなっていない。要するに自虐側は、批判されているのが歴史ではなく自分自身であることに、案外気づいていない。そこが気持ち悪い。

こういう話はしかしホントに面倒だ。でもこういう真っ当な面倒に「コダワル」人がたまにはいるから、インターネットはすごいと思う。そして、こういう面倒こそ引き受けなければ始まらないのだと直観する記事に、トラックバックは送らずとも心のエールを送っている人はもっとたくさんいるんじゃないかと思っている。

http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20041020#p10
http://d.hatena.ne.jp/Soreda/20041021

 *

なお、「自虐史観」は「自戒史観」でありうる。「自溺史観」は「自尊史観」でありうる。

この問題の可能性の中心(かもしれない部分)

さらに追加


http://d.hatena.ne.jp/fenestrae/20041019はてなダイアリー『fenestrae』)
ブログとしては長めだが、得るところ大きいので、少々我慢してでもぜひ。
一部を以下に引用。

《私が「事実」としてショックを受けるのは、2人の兵士が100人の中国人を競争で日本刀で斬ったかどうかよりも、それが読者の興味をひく記事として当時の新聞に堂々と大きく掲載され、戦意高揚とまで考えられていたまぎれもない事実、そうした事実が報道されながら軍もなんら問題にすることもなかった事実であり、そうしたことがまかり通っていた、当時の日本の文明としてのありかたである。私はこの事件が新聞記者の創作であればなおのこといっそう、それをよかれと思ってやった新聞記者の世論に対する感覚を思い慄然とする。(中略)もし2人の行為が汚名であれば遺族には最後まで闘い真実を求める権利がある。しかしこの問題を政治的に解釈し、これが新聞の創作であることが証明されれば、日本人の汚名が返上できるといわんばかりの論をはるものは、この点に関する日本人全体の名誉についてどう考えるのだろうか。》

《…過去を時代の文脈におき、人々の行動を相対主義の相のもとで理解することは確かに必要かも知れない。しかしまたわれわれには、現代につながる近過去を、新しく獲得した現代の価値基準で見、そこからショックを受け、受け入れられないものとしてはねつける権利も義務もあると私は信じる。もし理解という行為があるとすればそれはその権利を行使してからのことだ。》

《相手の議論の1%の隙をつきながら行われる「なかった主義」の議論、それは、どこまでも枝わかれする細部に次々と入り込んだり論点をずらしながら、それぞれの場所でいくばくかのポイントを稼ぎ、それによって中心部分までも否定したかのような印象を与えるテクニックの駆使によって展開していく。知的ゲームとしてのそれを読むはめになるとき、無念を背負った死んでいった人々の残したまぎれもない物理的な跡を見たり、いろいろな思いを背負った残された人間との具体的なこれまでの出会いなしには、自分もその「なかったゲーム」の担い手になっていたかもしれないとふと思うことがある。》


 *


この記事をうけ、
相対主義つまり昔のことを今の感覚で断じていいかどうか、をめぐる意見。
http://d.hatena.ne.jp/flapjack/20041026
歴史に対しては「理解」だけでなく「是認」という応じ方が
別個にあるのでは、といった逡巡。


相当飛躍するが、私の言い方に無理やり結びつけてしまうなら、
南京大虐殺を、私たちは楽しく議論できるのか、楽しくは議論できないのか」
といった問いに通じるのではないか。