東京永久観光

【2019 輪廻転生】

現実感の存在証明


日本人人質3人が解放されると、まだ2人の行方が知れないことをつい忘れる。しかもイラクでは戦闘によって大勢の人がどんどん命を落としてきたことも、もうおざなりにしか思い起こさない。だから今もこうして一段落した気分で書いてしまっている。私はそういう「現実感」のなかで日々を送っている。それを認めないわけにはいかない。しかし逆に、この「現実感」をもっと強く見つめてみることで、やっと解ってくることがあるとも思う。

日本政府は、自衛隊の撤退はしないと最初から断言し、そのうえで、ただ3人の国民のために方法はどうあれ底力と面子をもって可能なかぎり動いたように見える。「そりゃそうさ、どっちも当たり前だろ」というのが日本の常識・世界の常識だったのかもしれない。でも、国とは何か国民とは何か、その「バラバラ」ぐあいではなく「まとまり」ぐあいの強さというものに、私はこの事件を通して改めて触れた。正直そう思う。

だれもが知っているこの世の実状として、国というまとまりだけは相当に強固だ。○○県出身とか××会社社員といったまとまりとは違う。また、これほどのまとまりは国を超えた次元ではやっぱり見当たらない。だから、イラクで行方不明になった日本人を、かりに現地の政府(今は存在しないが)や国際組織が、あるいは出身地(道庁は親切そうだが都庁はどうかな?)や勤務先が手をこまねいていたとしても、日本国だけは余裕があるかぎり見放さない。大阪府の住民が福井県で雪山遭難したからとって、その救出に最終最大の責任を追うのが大阪府であるわけではないのと、好対照だ。もちろん今回は、いわゆる国益や軍事に大きく絡む事態だったろうし、そもそも政府は法に従うという大原則があるから、3人の肉親でもない総理や外務省が内心苦々しく思いながらも金も労もいとわず任に当ったのは、これまた当然なのだろう。その揺るぎなさが私には「へえ」とすら感じられたのだ。「次はもう知らんぞ」と総理が言うのも、それでも動かないわけにいかないからこそだろう。

この揺るぎなさをもって「国あり国民あり」は証明できた。もう四の五の言う余地はないじゃないか。たしかに国際社会あるいは日本政府の「現実感」とはそういうものだろう。そうした「現実感」のなかに、アメリカのイラク戦略も日本の自衛隊派遣もあるのだろう(イラクの人がどしどし殺される事態とともに)。この「現実感」は日本人の多数が結局共有していることも、今回よくわかった。

いや、最初に書いた私の「現実感」だって、それとかなり似ている。繰りかえすが、国と国民の実相が今回こそありありと示されたと感じるのだ。しかしだからといって、この「現実感」が至上でも普遍でもないということも、やはりわざわざ考えてしまう。たとえばではあるが、もし3人が在日コリアンだったなら日本政府はどう動いたのだろう。マスコミはどう伝え、日本国民はどう思ったのか。また拘束した集団たちは、韓国人や中国人と同様に3人をすぐに逃したのか。それにも関わらず日本政府に自衛隊撤退を要求する、なんてことはありえないのか?(ふと映画『天国と地獄』を思い出した)

このように国と国民という唯一強固なまとまりを軸にした「現実感」。そして国と国、国民と国民との間では利害の対立や殺し合いすら避けられないという「現実感」。しかし、これとは違ったもう一つの「現実感」に立っている人たちも、やっぱり本当にいた。そのことも私は同じくらい「へえ」の気分で受けとった。今回の事件は、そちらの「現実感」にも改めて目を向ける機会だった。

一つはイスラムの人たちの「現実感」だ。日本や日本人とはかなり違った仕組みや感覚で成り立っている社会や人間が、どうやら確実に存在している。これまでさして知ろうとせず無いことにすらしていたかもしれないが、それほど単純にこの世は出来ていない。そのことを思い知らされた。そしてそのイスラムの人たちが、3人を日本人という理由だけで拘束し「焼き殺す」とまで述べたことは事実だが、「日本人は日本政府と別だ」「日本人は日本政府に自衛隊の撤退を働きかけてほしい」(趣旨)と明言したことも事実だ。それは半分はったりだとしても、私はそれ以上の重みを感じ取る。私たちの揺るがない「現実感」を揺るがすものがここに顔を出すからだ。だからといって、私がイスラムという法や「現実感」を生きているわけではまったくない。たとえば、女性をまず強姦の対象として見てしまうような代議士に強い反感を覚えるほどではないが、女性だけは殺してはならない(男性は殺してもいい)し握手すらしないという彼らの態度にも、ことさら同調したいとは思わない。

もう一つのオルタナティブは、やはり世界市民といった「現実感」だろう。それはおおよそ「プロ市民」「サヨク」と嘲笑され蔑視された人たちの「現実感」であり、人質になった高遠さんや今井さんやその兄弟も、同じ「現実感」を生きているように見える。それは典型的には以下のようなものだろう。やや長いが、『aml』のメーリングリストに投稿されたコリン・コバヤシという人の見解の一部だ(友人が転送してくれた)。

私たちは私たち市民としての可能な限りのネットワークを広げることによって、市民社会の連帯パワーの可能性を夢見させてくれたと思います。そのきっかけとなったのは、なんといっても今回拉致された三人の方々です。彼ら、彼女は日本政府が主張しているようなアメリカの大義のない戦争に 自衛隊を持って加担するのではない方法、すなわち愛情と友愛の原則に基づいて、勇気を持って関わろうとした数少ない方々です。(中略)政府が日本の大半の民意を代表しようとしないとき、市民は市民独自の判断で行動を起こす権利があります。そのことを実践したのが、これらの方々でした。そして、拉致したイラク人たちは、政府とは違う良心と愛に基づいた日本市民たちがいたことに気がついたからこそ、またそのような市民を無為に殺傷することはイスラムの精神に反すると説いた宗教指導者たちがいたからこそ、彼らは開放の呼びかけに答えたのだと思います。(中略)私たちはこの連帯と共感をより広げ、イラクアフガニスタンパレスチナなどの最も抑圧された民衆へと繋がっていくことを期待します。

高遠さんの弟さんが、しばしば「世界中の人たちが」という言葉を使うのが気になっていた。そういう「まとまり」の存在を揺るぎなく感じ、しかもその「まとまり」の力によってこそ姉の命は救えるのだと本気で信じているように見えた。これと対称的に、「日本の皆さん」や「日本の政府」との連帯に期待しているようには見えなかった。

こうした「現実感」は素晴しいと思う。心からそうあってほしいと思う。しかし同時に、疑いもまたどうしても頭をもたげてくる。今この世の中は、残念ながら、それほどきれいには出来上がっていないのではないか、と。きたなすぎる「現実感」を受け入れたくはないが、きれいなばかりの「現実感」にもなにがしか違和感を覚えるということかもしれない。

多数の国が拠って立ち日本もその仲間入りを果たそうとしている「現実感」。そしてそれに代わりうる、たとえば世界市民あるいはイスラムという「現実感」。私の「現実感」はそれらのどこでもないところを漂っているようだ。そのとき、日本政府の「現実感」だって世界市民の「現実感」だってイスラムの「現実感」だって、私の「現実感」と同じくらい幻かもしれないと言いたいのと同時に、それでも、このいずれもが何らかの「現実」によって産みだされてきたことは間違いないと言いたい。では「現実」は一つではないのか? 人間には「現実感」しかなく「現実」そのものを知ることは不可能だ、という原理は今はおこう。やっぱり、これらの「現実感」のうちどれか一つが最も正しく現実に立脚していると考えるべきなのだ。

自分の「現実感」をおろそかにしようとは思わない。しかし私は今それ以上に、ほとんど知らずにいたかもしれない現実そのものが知りたい。イラクは今どうなっているのか。アメリカと国連はこれから何をしようとしているのか。そして、日本人3人はどのような現実によって拘束され、どのような現実によって救出されたのか。それをぜひ知りたい。情報は必ずしも隠されてはいないだろう。