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【2019 輪廻転生】

インターネットの読み書き変容 [2]


インターネットの読み書き変容 [2] 1index3


ウェブ日記=新しい「内面」の誕生
 

2-1 言文一致で生じた内面(柄谷行人
 常態化しているある感触が、実は普遍でも無条件でもなく、歴史上のある特定の制度によって一気にもたらされた、ということがありうる。柄谷行人氏の評論『日本近代文学の起源』は、こうした逆説への覚醒を強烈に促した。同書が取り上げたのが、明治の言文一致という制度だ。そして、我々が自明のものと受けとめている、とりわけ「内面」という感触が、この言文一致という制度によって初めて立ち上がってきたものであることを、柄谷氏は鮮やかに論述した。
《日本の近代文学は、いろんな言い方はあっても、要するに「近代的自我」の深化として語られるのがつねである。しかし、「近代的自我」がまるで頭の中にあるかのようにいうのは滑稽である。それはある物質性によって、こういってよければ"制度"によってはじめて可能なのだ。つまり制度に対抗する「内面」なるものの制度性が問題なのである。(…)/したがって、私は「内面」から「言文一致」運動をみるのではなく、その逆に、「言文一致」という制度の確立に「内面の発見」をみようとしてきた。そうでなければ、われわれは「内面」とその「表現」という、いまや自明且つ自然にみえる形而上学をますます強化するだけであり、そのこと自体の歴史性をみることはできない。(…)重要なのは、「内面」がそれ自体として存在するかのような幻想こそ「言文一致」によって確立したということである。》(「内面の発見」)
 この洞察を踏まえたうえで、ここからは、ウェブ日記に代表されるインターネット上の新しい読み書きと、それに付随する新しい「内面」を探ってみる。繰り返しておくが、明治の言文一致によってある種の「内面」が人工的に備わった。したがってそれは普遍でも永遠でもなく、いくらでも移ろいゆく可能性がある。インターネットという制度は、これまで馴染んでいた「内面」を、どのように変貌させただろうか。


2-2 内面の外部化
 明治中期以降の作家たちが、言文一致によって小説の描写が自在にできるようになったとき、「内面」と呼ぶべき感触がふいに浮かび上がった。これと同じく、インターネットやウェブという新しいシステムは、一般の人々にも書くことを身近にさせ、その結果、やはり我々の「まるで内面のようなもの」が一斉に文章化され、初めて外部に出た。これを基本の構図と考えたい。
 その文章の多くは日記という形をとっている。インターネットによって、日記は、他人が一緒に読むものへと変わったのだ。ウェブサイトに日記を載せている人は、もともと日記をつけていた場合も少なくないだろう。だが、それを皆に見せて回るようなことはなかっただろう。一般人の文章化されていなかった「内面」だけでなく、すでに文章化されてはいても、引き出しのノートにしまわれたままだった「内面」もまた、初めて光にさらされたというわけだ。
 いったんウェブサイトにさらされた日記は、インターネットによって即座に、隅々にまで行き渡る。普通の人たちの膨大な「内面」が、過去に書かれたものから最新のものまで、いつでも誰もが読める状態になった。見ず知らずの看護婦の「内面」にも無数の人がアクセスできるゆえんだ。サイト作成やファイル送信の操作はどんどん自動化され、この流れには拍車がかかっている。その「内面」の総量たるや、明治作家の私小説の比ではない。ウェブ日記は、書くことを事実として普及させ、「内面」を流暢に表出させるシステムとして、かつての言文一致をはるかに凌駕した役割を果たしている。
 なお、毎日これほどの文章が書かれるようになったことは革命的なのだが、それと同時に、毎日これほど他人の文章をフォローして読んでいることにも驚くべきだろう。たとえば、離れて住んでいる自分の親よりも、その書き手に起こった出来事の方を詳しく知っているというサイトがいくつも存在するのだから。あるいは会社で毎日接する人でも、ふだん何を考えているかなど、改まって問われると分からないものだが、リンク先の日記であればそうではない。
 ちなみに、個人のウェブサイトは、日記を載せる目的で登場したわけではなかった。当初はもっと多彩なコンテンツが手探りであれこれ増えていったと記憶する。そうしたコンテンツの更新を告知するページが設けられ、そこに更新告知だけでなく書き手自身の雑感や独白が添えられるようになったことが、ウェブ日記のルーツとも言われる。やがてそれは主要コンテンツとして前面に出るのだが、それまでは「更新告知のための更新告知」と苦笑いされることもあった。つまり、ただ自分の日常を書いて読んでもらうという習慣が、はっきりした動機を欠きながらも、他の利用法を駆逐して定着したということになる。ウェブサイトというシステムが勝手に作動すると、日記という「内面」が梱包されて出てきてしまう、ということかもしれない。


2-3 内面の共有化
 さて、こうして日記を人前に出す習慣が特別でなくなると、おかしなことに今度は、公開されない日記はないも同然、というふうに感じられてくる。また、サイトに日記を出すようになったのに伴い、自分だけに向けた本来の日記は徐々に書かなくなった人がいるのではないか。もっといえば、ウェブ日記には読んだ本や買い物などの感想がしばしば書かれるが、そうした感想を自分のサイトに掲載して皆に知らせないことには、その読書や買い物をした事実を事実として認定できない気分にすらなっていく。
 これは、ウェブ日記にとって、書いて示した文字列以外に自分の情報を伝える手段を持たないことが関係しているかもしれない。有名作家の小説やエッセーであれば、他の媒体を通した作品の評判や人物像といった、やや曖昧な背景をまとっており、眼に入る文字列だけがすべてではない。また、ウェブ日記は、書き手が現実から離れられる、隠れられる場所として求められる面があることから、職業や経歴を紹介せず年齢や性別すら明かさない人も少なくない。社会と接しているはずの外面を欠くことで、いきおい文章で記述された「内面」ばかりが書き手の像を作りあげることになる。
 もう一つ個人的に思い当たること。私は、ごく親しい友人グループでメーリングリストを作って交信しているが、そのうちの一人になにか連絡があるという場合、あえて私信にせず、メーリングリストのメッセージとして送信し、必要のない他のメンバーにも知らせていることがある。どうやら我々は、自分ひとりの体験や感想を、周囲が共有していないと気がすまなくなったらしい。特定メンバーに向けた情報や意見も、全メンバーが共有していないと落ちつかくなったらしい。
「内面」はいつのまにか秘匿から公開がデフォルトになった。文章化され初めて姿を現した「内面」は、もはや共有されずには存在を維持できないのだ。


2-4 内面の初期化
「内面」はさらに風変わりな様相を見せる。
 大衆の絶大な人気に支えられて誕生した小泉政権は、デビューとなった施政方針演説で公約したとおり、メールマガジンを週刊で発行している。首相官邸のウェブサイトでバックナンバーが読めるが、私は「総理からメール」を実体験したいと思って登録してみた。届いた第一号を開くと、冒頭まずは首相のメッセージ。しかしそのタイトルは「らんおんはーと」。なんだ、国民を見くびっているのか。いや、意外にこれは小泉首相の本当の趣味であり、リテラシーのレベルを示しているのかもしれない。そう思い直したことを記憶している。
 この小泉首相のメッセージをパソコンでコピーし、ある日のウェブ日記にペーストし、それに続けて自分の意見を書いたとしよう。すると、個人の独白であれ、一国の首相の演説であれ、文章など、たかだかモニターに並んだテキストの、区別できない連なりであり、言葉の力にも一定の限界やなんらかのからくりがあるのだということを、見せられてしまう。このメールマガジンは今も継続し、そうした無力な実感を国民の間に徐々に広げているものと思われる。インターネットは、文章すなわち「内面」を、広くさらすと同時に民主化させ平準化させるシステムでもあるらしい。
 インターネットでは、ほかにも歌手の宇多田ヒカル氏、サッカーの中田英寿氏といった有名人の日記が読める。小説家が個人のサイトで日記を公開している場合もある。また『青空文庫』というサイトに行くと、著作権期間の終了した文学作品が全文テキストとしていくつも掲載されている。そこでは、明治作家が苦悩した「内面」というものにいくらでもアクセスできる。かおるさんの日記が常に読めるのと何も変わらない。その操作や距離感も変わらない。そのとき何が起こるか。有名無名を問わず誰の「内面」であろうと、初めて発見したときの鮮やかさや尊さが、手を携えて褪せていく。もちろん文章に優劣はある。だがそれより、それらがどれも同じテキストデータの行列であるという事実がむしろ壮観だ。
 ここに垣間みるのは、あらゆる「内面」がフォーマットされた状態ではないか。先に引用した高橋源一郎氏の「初期化」という形容が、ここで思い当たる。
 しかしこれは他人事ではない。ウェブ日記をつづっている無数の人たちも、自らの「内面」を神秘化させたままではいられないのだ。かつて自分の「内面」が書かれずにいたころ、あるいは書いても引き出しに眠ったままだったころ。その空想の「内面」はきっと高貴で、悠々として、彩りも豊かだったに違いない。しかし、それがいったん文章化され目の前のモニターに現れてしまうと、どうにも狭苦しくみすぼらしい。自分の「内面」とはこの程度か。落胆をおぼえずにはいない。いや、それはまだサイトのコンテンツが少ないだけで、本当の「内面」はまた手つかずで残っているんだ。――そう思うのは勝手だが、書かれていない真の「内面」などどこにも無いことに、やがて気づくだろう。ウェブ日記の過去ログとしてかき集められた「内面」は一目瞭然、その貧困な外形を内実を、容赦なくさらしているのだから。
 電子メールについても触れておこう。メールの文面はウェブ日記のように不特定多数には公開されない。それでも、用途に応じた「内面」の断片を特定二人すなわち自分とメールの相手が共有することではある。そのとき、用件のすべてが文章化されねばならない。しかも、直接の会話なら表情や動作のうちに、電話なら声の調子などで成立したニュアンスも、同じく外部化、平準化を迫られる。また、親密な相手とのあいだだけで使う呼びかけや独特の語尾、符牒などは、文章になりにくい。あるいは、したくない。こうした困難と違和感を、多くのメール利用者が味わっているのではないか。すっかり定着した電子メールだが、ここでも我々は、初めて「内面」を曝し、公的にそれと向き合わざるをえない。
 ここまでたどってきた「内面」の外部化、共有化、初期化といった、明らかに現在的な局面を、ひとくくりに「顕在化」と呼んでおこう。一般人の「内面」はインターネットによって初めて顕在化されたのである。

 
2-5 ネット時代の二葉亭四迷
 パソコン、インターネット、ウェブ日記。この仕組みは、急速ではあるが実にスムーズに日常化した。書くのが楽しくてしかたない。自分のことがいくらでも書ける。しかしそのせいで我々は、もうずっと以前からこうして、自分のことを外の全員に向かって語っていたかのように思い込んでいるところがある。キーボードで難なく書けて、モニターで難なく読める「内面」をいちいち疑ったり、その起源を訪ねてみようとはしない。
 柄谷行人氏の言葉に倣えば、「内面」がそれ自体として存在するかのような幻想、ということになろう。高橋源一郎氏が、近代文学のはじまりに遡らなければ見つからない質の、言葉への素直な信頼、と疑義を示したことも思い出される。
 しかしその一方で、書くという体験の不可解さに、根源的な違和感をおぼえている様子が、ウェブサイトの文章から窺えることも少なくない。ほんの一つだけ例をあげる。
《最近、僕は文章による表現というものの難しさに改めて辟易している。まったく他者の共感を安易に得ようとしている己に気づいては絶望し、また決して理解できない文章を書こうとしている己に気づいては絶望するという体たらく。/それと云うのも、この日記という場が自由すぎるのが原因なのだろう。僕の日記の美学は「全てを記すこと。」であるからして、首尾一貫していない毎日を首尾一貫せずに記すことで、散逸的な首尾一貫した構造を見出そうなどと考え出す。/言うならば全方位拡散方型日記である。正しい道を歩むこともできなければ、間違えた道すら歩めないのだ。そこに安心感を見出せるのだが、困ったことにそれだけで僕は満足しない。安心している自分が不安なのだ。/そこで極めて体系に埋没した没個性的な、さらには内的世界に自閉した没交渉的な世界を構築しようと邁進するが、独我的自我に目覚めながら、忘我的自我に依存するという矛盾に気づき、再び辟易する。》(CRAZY HAL「日記についての考察 −日記を愛する全ての者へ捧げる−」『浸食HAL脳』http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Keyaki/5625/nikki_ko-satu02.html
 こうした逡巡が何を示唆するのか。インターネットによって「書く」ことの言文一致が一般人にも初めて波及し、一般人の「内面」が一挙に顕在化した。これによって、柄谷氏が指摘した「内面」の隠蔽された制度性や幻想性もまた、これらの書き手には見えてきた、顕在化した、ということではないだろうか。「内面」と表現の齟齬、すなわち言文一致で「内面」が表現できるという前提の疑わしさに、敏感な書き手は気づいているのだ。
 過去100年余り、言文一致の成立をよそに、書く体験をほとんど持たなかった我々は、与えられた文章だけを読みながら、「ここにはきっと人間の内面や世界の真理が表現されているにちがいない」といった信用を保ち続けていた。つまり、文を読むとは「内面」を「真理」を読むことだった。「言=文」一致を、「内面・真理=文」の一致として信じたのだ。ただし、自ら書かない者にとって、それは他人の「内面」や「真理」にすぎない。しかし、だからこそ、その「内面」や「真理」は素朴に信じられた。もしその文章に齟齬や疑念を感じても、「他人の文章であれば自分が完全に納得できないのは仕方ない」という諦めが生じただろうから。それが防波堤になって信用は崩れずにすんだのだ。
 ところが、インターネット時代になって一般人が自ら書くようになると、その信用が揺らいでいく契機が訪れる。「書かれた文章=内面・真理」の一致は、自分が書いていなかったがゆえの幻想でしかない。自ら文章を書いていく体験とは、その文章が自らの内面や自らの真理とつつがなく一致していく確信よりも、どうにもうまく一致しない不信をこそ生み出すのだ。「読む」だけの言文一致が終わり、「書く」を含めた言文一致が完遂されたことで、一般人は、近代作家に大きく遅れはしたものの、「内面」や「真理」へ疑いにようやく直面する。
 すでにいくらか述べてきたが、インターネットでは、自分の書いた文章も、他人の文章と同じ状態でブラウズする。書籍だけで読んでいた古い時代の小説もまた、同じ文字列としてそこに加わる。それらはみな、パソコンを使えば際限のない修正や編集ができる。そのとき、読むだけだった他人の「内面」を、自らの「内面」と同じく、「書かれた内面」という同一の手ごたえによって感じ取ることが、初めて可能になる。「内面」や「真理」が、どのような操作で構築され、捏造されるものだったのかが、ようやく身にしみる。ベールは剥ぎ取られた。
 また、これまで他人の文章をあれこれ論じることはあっても、自分の文章がそうなる体験はまずなかった。しかしインターネットでは、他人の日記に言及するだけでなく、ほかでもない自分の日記が、ときとして他人から褒められ、貶される。びくともしないかに思えた「内面」が、ぐらぐらする。しかしそれは、自分が書くこの「内面」だけがそうなのではなく、これまで読んできた多くの作家の「内面」、他人の書く「内面」も、皆そうだったのだ。そのことに気づかずにはいられない。
 二葉亭四迷は、言文一致体を苦心して編み出しながら、文章によって真実を表現するという前提への懐疑を最後まで捨てられなかったという。二葉亭の次のような述懐は、先ほど引用したインターネット時代の書き手の心情に重ならないだろうか。
《だが、要するに、書いていてまことにくだらない[#「くだらない」に傍点]。子供が戦争(いくさ)ごッこをやッたり、飯事(ままごと)をやる、丁度そう云った心持だ。そりゃ私の技倆が不足な故(せい)もあろうが、併しどんなに技倆が優れていたからって、真実(ほんと)の事は書ける筈がないよ。よし自分の頭には解っていても、それを口にし文にする時にはどうしても間違って来る、真実(ほんと)の事はなかなか出ない、髣髴として解るのは、各自(めいめい)の一生涯を見たらばその上に幾らか現われて来るので、小説の上じゃ到底偽(うそ)ッぱちより外書けん、と斯う頭から極めて掛っている所があるから、私にゃ弥々(いよいよ)真劒にゃなれない。/人生(ライフ)、々々(ライフ)というが、人生(ライフ)た一体何だ。一個の想念(ノーション)じゃないか。今の文学者連中に聞き度いのは、よく人生に触れなきゃ不可(いかん)と云う、其人生だ。作物を読んで、こりゃ何となく身に浸みるとか、こりゃ何となく急所に当らぬとかの区別はある。併しそれが直ちに人生に触れる触れぬの標準となるんなら、大変軽卒のわけじゃないか。引緊った感を起させる、起させぬの別と、人生に触れる、触れぬとの間にゃ大なるギャップが有りゃせんか。》(二葉亭四迷「私は懐疑派だ」『青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/000006/files/382.html


2-6 関係の顕在化1=リンク
 さて、ウェブサイトの日記が「内面」の顕在化ならば、サイト同士がリンクで結びつくことは「関係」の顕在化と言えるだろう。日記を書いて公開したことで、「内面」が容赦なく外に出て共有された。それに続き今度は、自分はこのサイトを知っている、この日記を読んでいる、そこに共感や好意を持っているといった「関係」が、リンクという機構を設置することで、明らかな通路、明らかな矢印として明示されるのだ。矢印が逆向き、つまり他のサイトからリンクされる「関係」も当然ある。
 この「関係」には曖昧さがない。クリックの操作はオンかオフしかありえず、リンク先として埋め込まれたURL(サイトのアドレス)に必ず達してしまう。だから誤配はないが、そのかわり一文字でも違えば届かない。よく個人や団体間の交友を線で結んだ模式図があるが、リンクはこの線が実体化したようなものだ。こうして「内面」と同じく秘め事でもありえた「関係」は、公然の事実となる。やがてまた、リンクとして提示されない限り「関係」は「関係」たりえないという意識も生じてくる。
 自分のサイトから他人のサイトへリンクするのに、過剰なほどの配慮を見せる人がいる。「リンクしていいですか」と相手にわざわざメールしたり、リンクしても「問題があればすぐ消します」と書き添えたり。リンク表示に許可や通知は不要というのが常識的とされるが、それでも「リンクに許可は必要か」という論争はなくならない。企業のサイトのように著作権や営利が念頭にあるわけでもない。彼らの意識のなかでは、個人サイトはその個人の人格を体現している。リンク「関係」はまさに対人関係なのだ。したがってリンク表示は親愛の情を告白することであり、自分のサイトが他からリンクされれば友人を一人得たことに等しい。リンクが消えればその「関係」も消える。


2-7 関係の顕在化2=掲示
 個人のウェブサイトがたいてい併設している掲示板は、その人の自宅を訪問して玄関か応接間でやりとりするような「関係」が、文章になって顕在化されたと捉えることができるだろう。電子メールがメッセージを個人から個人へプライベートに届けるのと違い、掲示板に書き込んだメッセージはそのまま公開される。そこでは「お邪魔します」の挨拶から始まり、さまざまな言葉が交わされる。遠慮がちなやりとりもあれば、馴れ馴れしいやりとりもある。引かれ合い、背き合い、別れに終わることもある。いずれにしても、相手の姿は見えず、互いの「内面」が直接ぶつかり合うような「関係」が日々進行する。ときには、実際に交際したことが報告されることもあるが、だからといってそちらがよりリアルだとも感じられない。
 掲示板の「関係」は、文章として顕在化されているわけだから、削除されない限り、忘れ去られることはなく、薄れてもいかない。そのため中傷や罵倒がいったん書き込まれれば、現実の関係に増して深刻な対立となることがある。この「関係」の改善は、やはり文章の書き込みによって顕在的に行うしかない。「関係」の顕在化に耐えきれなければ、掲示板全体を消し去ってしまうほかない。
 なお、掲示板ではハンドルネームを使う人が多いが、架空の人格だからといって、中傷や罵倒はけっして聞き過ごせないものだ。またサイトの所有者は、掲示板が心ない悪戯や暴言で荒らされると、自分の心や身体が傷つけられたようにショックを感じる。現実の関係はゼロでも、つまり本当の自分を誰も知らず実際の利害も生じないとしても、その掲示板の惨状を放置できないというのは、不思議といえば不思議だ。このことは、この「関係」がゲームのようで実は少しもゲームではないことを意味している。
リンクの表示と同じく、掲示板のメッセージは積極的な「関係」であり、逆に言えばサイトや掲示板を黙って読んでいるだけなら、その気配は嗅ぎとられず「関係」も生じない。ところが、そうした潜在的な「関係」までシビアに数値化するのがアクセスログだ。アクセスログとは、そのサイトがブラウズされた記録の集積のこと。基本のデータは過去から現在までのアクセス総数で、ときおりサイトのトップに、カウンターの数字として臆面もなく公開されている。
ReadMe!』という総合サイトには、ウェブ日記からテキストサイト個人ニュースサイトなど多様な個人サイトが無数に登録されている。一般ユーザーが『ReadMe!』から各サイトを読みにいくと、そのたびにアクセス数が加算される。すべてのサイトのアクセス数が常に自動集計され、ランキングは一目瞭然だ。しかも一日・一週・一月の各単位でチェックすることができる。冒頭で触れた『日記才人』も同様のランキングを発表している。自分のサイトをどのくらいの人が読んでいるのかは、たしかに気になるものだ。だがその「関係」が、ここまで熾烈な競争で数値化され序列化されると、関心は、日記の中身以上に数字に向いてしまう。さらに、こうしたランキングは、単なる日記のしかも書かれ読まれた分の評価でしかないのだが、その日記に託した「内面」が重ければ重いほど、いつしか書き手の人格全体の指標にも思えてくる。


2-8 ウェブ日記=「私」の顕在化
 ウェブサイトを、書き手の「内面」や「関係」それぞれの顕在化という視点でたどってきたが、こうなると「内面」と「関係」を合わせて書き手がまるごと出現しているようにも感じられる。その「内面」や「関係」の主体としての「私」だ。それは、日記に「きょう私は…」と記述された「私」であり、それを読み、書いていく「私」でもある。サイト全体を「私」と称してみたくもある。個人のウェブサイトとは、つまるところ顕在化された「私」なのである。


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