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【2019 輪廻転生】

スタンダール『赤と黒』(読了)

https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2020/08/20/000000

↓(続)

 

赤と黒』は読み終えている。恋の炎、最後は昼メロかとおもうほど燃え上がる。そしてストーリーは急転直下(文字通り何かが急に落ちてきて終了)

 

※以下は読書中のメモ(ほんの少し)

 

《町長を非難する声がいっせいに、とりわけ自由派のブルジョアたちから沸き起こった。何とまあ、あの職人のせがれが、神父に化けて子どもの家庭教師になったというので、親衛隊に任命するとは町長もずうずうしい。しかも裕福な工場長の何々さんをさしおいてですぞ!》

当時の身分感覚がいろいろ出ているかと思われる。

《貴族階級の会話はさらに危険だった。こんなとんでもない無礼は、はたして町長一人の考えによるものかどうかと貴婦人がたはいぶかしんだ。町長が生まれの卑しさを軽蔑していることを、みな評価していたのである》

町長もまた正真正銘の貴族の一員ではあるのだろう。

 

《司教の演説に対して答辞を述べたのち、国王は天蓋の下に入り、祭壇のそばに置かれたクッションの上にうやうやしくひざまづいた》《農民たちは幸福と、敬虔の念に酔った。このような一日には、ジャコバン派の雑誌百冊分を台なしにする効果があった》(第18章「国王のヴェリエール訪問」p.209)

《突然扉が開いた。小さな聖堂は燃え上がるような灯火に包まれていた。祭壇の上には千本以上の蝋燭が、八列に並べられ、列のあいだには花束が置かれていた。なんの混ぜものもしていない香の馥郁たる匂いが、聖堂の入口から渦を巻いて吹きつけてきた》(p.211)

《国王は祈祷台に伏せるというよりも、身を投げだした。金泥の扉にぴったりと体をくっつけていたジュリヤンは、このとき初めて、若い娘のあらわな腕ごしに、聖クレマンの美しい彫像を見た。祭壇の下に隠されていた像は、古代ローマの若い兵士の服装をしていた。喉元に長い傷口があり、そこから血が流れ出しているように見えた》《この像を見て、ジュリヤンの隣の娘はさめざめと泣き、ジュリヤンの手にも涙がひとしずく垂れてきた》《国王自らも泣いていた》(p.212〜)

この時代のフランスにおいて、宗教(カソリック)がやはり特別大きな価値や役割をもっていたことが かいまみえる。世界に虐げられジャコバンに共鳴したはずの農民ですら国王と神の儀式のほうを好んでしまう。そうした儀式の場にいることが、だれもがみな神聖な気持ちを抑えられない。国王も神には、心から祈りを捧げているようにみえる。

上巻のガイドで訳者(野崎歓)は、この箇所について
《まさに「王座と祭壇の同盟」による、政治的な伝道活動の典型例を伝えている》と書いている。

 

ジュリアンは収容所にて、税務官、憲兵隊指揮官、金持ちの自由主義者たちに反感をつのらせながら思う。
《――ああナポレオンよ! あなたの時代はよかった、戦闘で危険な目にあえば出世できたのだから。卑劣にも、みじめな者にさらなる苦しみを強いるとは!》(第22章「一八三〇年におけるふるまい方」)

王党派にも自由主義者にもブルジョアにも反感をもっているということだろうか。


《われら田舎青年の姿を見たなら、パリの高校生たちはどんなに憐れをもよおすだろう。なにしろ彼らは十五の年にはもう、堂々とカフェに立ち入っているのである。だが、十五で立派なスタイルを身につけたそんな子たちは、十八で「人並み」になってしまう。田舎で見かける、情熱を秘めた内気さは、ときに臆病を克服して、自ら求める勇気を学ぶ》(第24章「首都」p.275)

十五歳で喫茶店に入ったことなどめったになかった者としては、この田舎の少年の心情には、共感せずにはいられない。

 

神学校に来るような農民の息子たちの、無教養や、欺瞞、やけくその信心のようなものが、読み取れる。(第26章「世間 あるいは金持ちに不足しているもの)

《彼らのぼんやりとした目には、食後であれば食欲が満たされた喜び、食前であれば食べることへの期待以外、何も見て取れなかった》

神学校で一番になるなんてことは《彼らにとっては派手な罪でしかない》《それは要するに、猜疑心と個人的探求にほかならず、疑うという悪習を民衆の精神に植え付けるものであって、フランスの教会は、書物こそは真の敵であると悟ったようだった。教会にしてみれば、心の服従がすべてなのである》 

優等生が自由主義側に転向してしまうことに《おじけずいた教会は、頼みの綱として教皇にしがみついている》

《〈学問など、ここでは何の意味もないんだ!〉ジュリヤンは悔しがった》

ふと思ったが、少し前の日本で新宗教にのめりこんだ青年も似たようなものだったのではないか。

とはいえ《戦争が休息のときだった古代ローマの兵士みたいに、粗野な農民たちにとっては神学校は楽園も同様なのさ》、これは現代日本新宗教にはほとんどなかっただろう。

 

上巻では、神学校や田舎のブルジョアや貴族の生態が描かれていたが、下巻では、正真正銘の高名な貴族たちの生態が描かれているのかなと思う。いずれも批判と軽蔑を込めて。サロンの様子、勲章、爵位の重み。(第4章「ラ・モール邸」)

《この貴族たちは、だれであれ国王の四輪馬車に乗ったことのある人たちの子孫以外に対して、心からの軽蔑を隠そうとしない》
本物の貴族とはこういうものか。

 

《彼がどれほどの憎しみと、嫌悪に近い気持ちを抱いてイギリスの地を踏んだかは述べるまい。ボナパルトを夢中で崇めていることはご存知のとおりである》

ジュリヤンは、ナポレオンをやっつけたイギリスを嫌悪していたようだ。


※以下は下巻末の「読書ガイド」(野崎歓)から:

・物語の構図:王党派(とりわけユルトラ)+教会権力(イエズス会) vs. 自由主義勢力 という対立を大きな枠組みとしている。前者は貴族、後者はブルジョワ中産階級や平民層の支える党派だ。

・レナールは、古いスペイン貴族の家柄。ただし、町長は、この時代、王党派政府が直接、指名した。要するに政府のいいなり。教会上層部の命令にも従わねばならず、ブザンソンの司教や副司教には頭があがらない。しかもそこには修道会という強大な組織の力もたえず働いて、レナール町長を翻弄する。

・成金実業家の象徴は、ヴァルノ氏。

・修道会は、きわめて政治的な、そして秘密結社的な性格を持つ、宗教組織である。ジュリヤンが入った神学校も、完全に修道会の支配下だと、悟る。

イエズス会vsジャンセニスト。ジュリヤンの2人の師、シェラン神父とピラール神父は、いずれもジャンセニスト。宗教界のマイナー派。

・ジュリアンに野心を植え付けたのはナポレオン。ナポレオンには、2面性がある。「ナポレオン」と「ボナパルトボナパルトは、革命の動乱の中、自らの才覚一つで社会の頂点に駆け上がった、不世出のヒーローだ。王党派にとっては、ナポレオン主義者は、ジャコバンや共和派と同じく社会の安定にとってもっとも危険な分子。モンテ・クリスト伯のダンテスの人生が狂わされたのも、ナポレオン主義者だという悪意ある密告をされたからだった。

・レナール夫人は、聖心貴族院で、教育を授けられた。婦徳と貞潔の大切さを吹き込まれた。その道に外れたときの地獄落ちの恐怖。ジュリアンとレナール夫人の出会いは孤立した者どうしの出会いでもあるのだ。